P・F・ドラッカー『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』


どんだけ本を出しているんだドラッカー、の本(笑)ひさしぶりに読みました。ドラッカーお得意の組織論ではなく、個人のあり方についての本でした。非常におもしろかった。最近はやりのライフハックに非常に近いこともたくさん言っているなあ、と。優先順位を決めることよりも、劣後順位を決めるべきだ、というのは非常におもしろい。何をしないのかを決めることが大事だ、ってことね。
それと、「自らを成果をあげる存在にできるのは、自らだけである。他の人ではない。したがって、まず果たすべき責任は、自らの最高のものを引き出すことである。それが自分のためである。人は、自らがもつものでしか仕事ができない。しかも人に信頼され、協力を得るには、自らが最高の成果をあげていくしかない。(p.228)」も強烈なメッセージとしていい。
以下、メモ。

p.51
生産性の急激な向上:過去100年でもっとも重要な社会的事件

豊かな人々と貧しい人々は常に存在した。しかし1850年に至ってなお、中国の貧しい人々は、ロンドンやグラスゴーのスラムに住む人々よりも、はっきりと分かるほどひどい状況にあったわけではない。1910年当時のもっとも豊かな国の平均所得は、もっとも貧しい国の平均所得のせいぜい3倍にすぎなかった。ところが今や、余暇、教育、医療を差し引いて、なおかつ両者の間には20倍から40倍の開きがある。


p.72
働く者を取り巻く4つの大きな現実
=仕事の成果をあげ、業績をあげることを妨げようと圧力をかけてくる現実

1.時間はすべて他人にとられる
2.自ら現実の状況を変えるための行動をとらないかぎり、日常業務に追われ続ける
3.組織で働いているため、他の者が彼の貢献を利用してくれるときのみ成果をあげられる
4.組織の内なる世界にいる。すべての成果は外の世界にある。組織の中にあるのは努力とコストだけ。


p.119

成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。何に時間がとられているかを明らかにするところからスタートする。次に、時間を管理すべく、自分の時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。そして最後に、その結果得られた時間を大きくまとめる。すなわち、時間を記録し、管理し、まとめるという3つの段階が、成果をあげるための時間管理の基本となる。


p.137

成果をあげるための秘訣を一つだけあげるならば、それは集中である。成果をあげる人は、もっとも重要なことから始め、しかも、一度に一つのことしかしない。

  1. 古くなったものを整理する
  2. 劣後順位(=取り組むべきでない仕事の決定)の決定をする
  3. 勇気を持って、過去ではなく未来を選び、問題ではなく機会に焦点を当て、横並びでなく自分の方向性をもち、無難で容易なものでなく変革をもたらすものに照準を合わせる


p.184

カリスマ性でも資質でもないとすると、リーダーとは何か。
リーダーたることの第一の要件は、リーダーシップを仕事と見ることである。これこそ、カエサル(シーザー)、マッカーサー、モンゴメリー、GMを1920年から55年まで率いたアルフレッド・スローンなどのリーダーに共通することである。


p.191

人に成果をあげさせるためには、「自分とうまくやっていけるか」を考えてはならない。「どのような貢献ができるか」を考えなければならない。特に人事では、一つの重要な分野における卓越性を求めなければならない。


p.228

自らを成果をあげる存在にできるのは、自らだけである。他の人ではない。したがって、まず果たすべき責任は、自らの最高のものを引き出すことである。それが自分のためである。人は、自らがもつものでしか仕事ができない。
しかも人に信頼され、協力を得るには、自らが最高の成果をあげていくしかない。ばかな上司、ばかな役員、役に立たない部下についてこぼしても、最高の成果はあがらない。障害になっていること、変えるべきことを体系的に知るために、仕事のうえでたがいに依存関係にある人たちと話をするのも、自らの仕事であり、責任である。
成功のカギは、責任である。自らに責任をもたせることである。あらゆることがそこから始まる。


p.234

私が13歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。「今答えられるとは思わない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」
長い年月が経って、私たちは60年ぶりの同窓会を開いた。あまりに久しぶりのことだったため、初めのうちは会話もぎこちなかった。するとひとりが、「フリーグラー牧師の質問のことを覚えているか」といった。みな覚えていた。そしてみな、40代になるまで意味がわからなかったが、その後、この質問のおかげで人生が変わったといった。
今日でも私は、この「何によって憶えられたいか」を自らに問い続けている。これは、自らの成長を促す問いである。なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けられるからである。運のよい人は、フリーグラー牧師のような導き手によって、この問いを人生の早い時期に問いかけてもらい、一生を通じて自らに問い続けていくことができる。