瀬名秀明『おとぎの国の科学』

おとぎの国の科学

おとぎの国の科学


パラサイト・イヴ』でしか知らなかった、瀬名秀明さんの本を読んでみた。ネットの発展が子どもの好奇心を満たすために役立ってほしい、という願い。専門がうんぬんよりも先に「おもしろい」と思える事象を先に提示しなくてはならない、という話。確かに、アメリカの高等教育では第一線の教授(それこそノーベル賞受賞者とか)が、最初の基礎コースを担当するんだってね。とにかく、その分野についての「おもしろいだろ?ほら」という話をこれでもか、これでもか、とするのは有効だと思う。自分が教わった先生を振り返っても、そういう先生の話の方が頭に残っているものなぁ。教育についての話題として読んでも非常におもしろかった。
それと、興味深かったのは、日本の子どもたちの理科離れは、実は理科だけの話ではなく、結局のところ「難しいこと嫌い」なのではないか?ということ。

だが、この類の調査結果には注意が必要だ。ここでは理科離れだけが強調されているが、ひょっとしたら理科だけでなく社会科離れや国語離れも進んでいるのかもしれない。内閣府の調査結果をウェブで読むと問題の在処がわかってくる。人々は科学技術に関心はあるが、適切な情報提供者がいないと感じている。だが一方で、科学者や技術者の話は機会があってもあまり聞いてみたいとは思わない。なぜなら専門過ぎてわからないからだということらしい。しかし経済や政治の話であっても専門的になる場合があるだろう。問題は科学にあるのではなく、「難しいことが嫌い」だということにある。つまりいまの日本人は、物事全般に興味が持てなくなっている可能性があるのだ。(p.200)

それはつまり、「難しいことは避けて通ろう」という問題に向かう姿勢みたいなものを、学校で教えられていないことに他ならないのでは、と思った。これは学力の問題ではなく、もっとメタなレベルの話ですね。
以下、メモ。

p.45

本当に知りたいと思ったとき、人間は好奇心を止めることができない。ここまでで充分ということはありえない。面白くなったらどこまでも追求したくなる。子供でもそれは変わらない。そのとき私たちが真に必要とするのは、優れた資料と優れた検索システムである。
(略)
専門資料は専門家だけのためにあるのではない。知りたいと思ったときに誰でも「博士」になれる、そんな時代が早くやってきてほしいと切に思う。コンピュータとインターネットの発展は、確実にその方向を拓きつつある。しかしまだ十分ではない。
未来の「博士」たちのために、また創作を志す者たちのために、図書館はもっともっと門戸を開いてほしい。そう願うのである。


p.48-49

専門が先にあるのではなく、面白いと思う事象が先にあることを私たちは忘れてはならない。いま盛んに学際的取り組みの重要性が叫ばれている。あまり効果は上がっていないようだが、実際に社会に出て問題が発生するのは、物事の枠組みがまさに「専門領域」で括れなくなってしまったときだ。文化の違う人間同士が協力して何かをつくり出すとき。既存の考え方を超えて新しいものを生み出そうとするとき。そのとき私たちは、はじめて専門以外の知識を必要とし、リンクする能力を試される。しかし、専門分野の外のことを何も知らず、またそれ以前に興味さえ持てずに、自分の専門分野の方法論に固執していたらどうだろう?リンクすることなどできるだろうか?
(略)
つまり、「教養」とは、リンクするための底力なのである。問題を解決し、そして新しい面白さを生み出すための底力といってもいい。知識だけ広範に持っていても駄目だということがこれでわかるだろう。物事を自分と関連づける膂力がない限り、それはいつまでも「教養」になりえない。私たちは、この「リンクする力」をどこかできっちりと習っているだろうか?

大学1、2年生の頃は、自分が面白いと思う本や映画や音楽や絵画を存分に吸収して、面白いと思うことをすればいいと思う。その一方で、自分が選んだ専門分野をどんどん勉強すればいい。
大学で教養教育が必要なのはなぜか。それは、私たちが中学や高校で勉強してゆく過程で、面白いと思う心をいつしか忘れていってしまうからだ。科目ごとに試験を受けることに慣れてしまい、もともと世界は学問分野などに細分化されることのないひとつのものであることを忘れてしまう。面白さを取り戻さなければならない。
だから教養の講義では、とにかく教授陣が自分の面白いと思うことをひたすらしゃべりまくればよいのである。下手に講義を総論的に構成して、自分のよく知らない分野のことまで話すのは禁物だ。1コマが15回の講義だとしたら、自分が面白いと思うトピックを15個話せばよい。面白いと思うことが15個もないという教授は、もとより教養教育に携わるべきではない。教授が面白いと感じることを熱心に伝える。面白さを学生と共有することが教養の第一歩だと私は思う。


p.71-73
心理学者ニコラス・ハンフリー「子供に何を語ればいいのか?」(『喪失と獲得』に所収)

  • 子供には他の人間の誤った考えに晒されることで心がいびつになるのを拒むけんりがある。
  • 割礼の文化を親の権利としても「子供の肉体を傷つける行為」として正当化できないのと同じように、心の問題も同様だ。子供が自分で判断できる立場に置かれたとき、無傷の肉体/心を選ぶだろうから。
  • 科学の信念体系を教育で得ることにより、子どもは自分自身で物事を考えるようになる。科学を教えるということは、「誰かほかの人間の信念を教えることではなく、子供に、自分自身の信念に到達するための理解力を鍛えるよう後押しするものなのだ」。


p.160
神山健治
「押井さんと同じものをつくりますよ」と。同じものをつくることで初めてそこに差が見えてきます。その差に気づき、その差が何なのかをイメージしていく。その作業を繰り返すことで、無個性化していた新人のクリエイターたちが、急にぱっと伸びてくる。そういう現象を垣間見ています。自分も含めてですが、そこには大きなヒントがあるような気がします。」

瀬名
「とても示唆的な指摘だと思います。匠の技を習う若者だって、最初は師匠の動きをひたすら真似ようとするところから始める。その中で自分なりの技が生まれてくる。」


p.168

野尻抱影は)学生時代に島村抱月と演劇研究をしていたことから共同で付けた“星名”だというのだ。島村は月を抱き、野尻は影を抱いたのである。
胸に迫るものがあった。山田風太郎が中学時代に友人たちと雨風霧雷の符号を分かち合ったというエピソードを思い出したが、むしろモダンな洒落っ気と涼やかな美しさが心に響いて、たちまち抱影に強い興味を覚えるようになり、彼の古書を探しては読んでいる。
野尻抱影。本名正英(まさふさ)星の抱影と呼ばれた文筆家だ。生涯にわたって星の和名を捜し、紹介し続けたことでも知られている。


p.185-186

本格ミステリー作家エラリー・クイーンは、多くの人が知るようにふたりのいとこの共作で、ペンネームと同姓同名(ドッペルゲンガー)の名探偵を作中に登場させている。彼らは幸喜になって名探偵の意味性に深く悩み、日本では笠井潔さんや法月綸太郎さんたちがこれを「後期クイーン問題」として盛んに論じた。名探偵はミステリー小説の中で鮮やかな推理を披露する。だが探偵が見つける手がかりは、よく考えてみると作者が意識的に物語の中にちりばめ、明文化したものだ。それ以外の手がかりを探偵は発見することが出来ないし、明文化された手がかりが真実だと保証する手段も持ち得ない。それができるのは神である作者だけだ。その作者が創った世界の中で、いくら探偵が推理を働かせたとしても、それは本当に優れた推理なのだろうか。


p.200

だが、この類の調査結果には注意が必要だ。ここでは理科離れだけが強調されているが、ひょっとしたら理科だけでなく社会科離れや国語離れも進んでいるのかもしれない。内閣府の調査結果をウェブで読むと問題の在処がわかってくる。人々は科学技術に関心はあるが、適切な情報提供者がいないと感じている。だが一方で、科学者や技術者の話は機会があってもあまり聞いてみたいとは思わない。なぜなら専門過ぎてわからないからだということらしい。しかし経済や政治の話であっても専門的になる場合があるだろう。問題は科学にあるのではなく、「難しいことが嫌い」だということにある。つまりいまの日本人は、物事全般に興味が持てなくなっている可能性があるのだ。