アリソン・アームストロング / チャールズ・ケースメント『コンピュータに育てられた子どもたち』

コンピュータに育てられた子どもたち―教育現場におけるコンピュータの脅威を探る

コンピュータに育てられた子どもたち―教育現場におけるコンピュータの脅威を探る

  • 作者: アリソンアームストロング,チャールズケースメント,Alison Armstrong,Charles Casement,瀬尾なおみ
  • 出版社/メーカー: 七賢出版
  • 発売日: 2000/10
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (4件) を見る

コンピュータを教育に利用していくことについての否定的サイドの本。2000年出版です。でも、あながち「古い!」と切り捨てられてない状況もあったりして。今でもあまり内容は変わっていないかなぁ、と思うところもたくさんあります。
コンピュータもインターネットも、今の保護者達が子どもだった頃にはなかった技術です。なかったサービスです。当然、それをどのように子どもの頃に使っていたのかという経験もない。その意味で、筆者が言っているコンピュータを使う教育は「壮大な社会実験」だ、というのは納得もします。

そして今や、最新技術は家庭や学校の中にも根ざし、思いもかけないところから子どもたちの教育を変容させつつある。今の子ども世代は、知らないうちに、「壮大な社会的実験」としか呼びようのないものに参加させられている。この実験により、教育システムの構造は根底から改革されることを余儀なくされ、それにともなって子どもたちが世界について学び、体験していく方法にも根本的な変化が訪れることは避けられない。(p.19)

ただ、だからと言って何もしないのは違うだろう。コンピュータもインターネットも、今までだったら「仕方ない」とあきらめざるをえなかったことをあきらめずにしてくれる(かもしれない)仕組みです。近所にいる人たちからメンターを探せなかった子たちが、ネット上でならメンターを見つけられるかもしれない。そういう可能性も考えてほしいな、と思う。

何でもかんでもコンピュータとネットを使うのは違う。でも、わからないからって使わないのも違う。「情報」なんて科目は、いずれなくなるでしょう。コンピュータやネットがリテラシーとして定着したら、いらなくなるからです。コンピュータやネットを使ってデータを分析したり、そこで感じたことを推敲しながら書きつけていったり、ネット上でのディスカッションを楽しんだり、そういう子たちがもっともっと増えてくるんじゃないかな、と思う。そして、そういう使い方をする活動が学校では増えてきて、特別な授業枠以外でも教えられるようになる。そんなふうになってほしいなぁ、と思います。あ、そうすると「情報」の授業の中身は、「表現」だとか「思考法」だとかを取り込んだ形になるのかもしれないけど。今でも、先進校はそういうふうになってますけどね。
この筆者たちが、今の状況を見てどんなことを言っているのか探したいな。軽くググってみた…が、わからない(笑)PAX Programの人は、同姓同名だよね?
以下、メモ。

p.19

そして今や、最新技術は家庭や学校の中にも根ざし、思いもかけないところから子どもたちの教育を変容させつつある。今の子ども世代は、知らないうちに、「壮大な社会的実験」としか呼びようのないものに参加させられている。この実験により、教育システムの構造は根底から改革されることを余儀なくされ、それにともなって子どもたちが世界について学び、体験していく方法にも根本的な変化が訪れることは避けられない。


ここには、この改革の大きな原動力になっている2つの思い込みがある
1.コンピュータを導入すれば、より生産的で適切な教育が可能になり、あらゆる年齢の子どもにとって魅力ある学習が実現するという考えkた。
2.コンピュータがすっかり生活の一部になった以上、教育の場にも持ち込まれてしかるべきだとする考え方。


p.35
GLDF, George Lucas Educational Foundation(ジョージ・ルーカス教育基金)


p.41
ジェーン・ハーリー『滅びゆく思考力』:
「今日、問題を解決したり、抽象的に考えたり、筋の通った文章を書くことが苦手な生徒がこれほど多いのは、心の中で会話をする能力が十分に育っていないからだ」
「心の中の会話を上手に使う子どもは、情報やものごとを効果的に記憶する。順序を追って考え、選択肢を吟味し、その結果を推測することに長けている」

心の中の対話は考える力に直結している。心の中の声が、ピーピーと鳴り続ける電子音にかき消されるような状態がいいはずはない。


p.49
フロリダ州のセレブレーション・スクール
(ディズニー社が企画・建設したコミュニティ)


p.110

もちろん、幼い子どもを対象にしたコンピュータソフトは、高度なタイピング技能を要しないものが多い。しかしソフトの操作以外にも、モニタの映像の細部に視線が固定されるという別の問題がある。視力を専門とするある行動科学者は、「小学生の15〜40%は、毎日の教室での作業が満足にできるレベルまで目の機能が発達しきっていない」と考える。
裁縫、粘土細工、パン焼き、キャッチボール、編み物、おはじき、たて笛の演奏などの活動の方が、手先の細かな運動を要する技能、特に目と手の連携を育てる方法としてはずっとすぐれている。


p.111

コンピュータは多彩な表現を可能にする機械であるという人は多いが、じっさいには、ほとんど視覚という唯一の感覚に依存している。(略)しかし、子どもたちの「思考をサポートする」最たる道具は彼らの身体である。


p.157

子どもたちにとって、物語は単なる娯楽ではなく、もうひとつの現実だ。スミスはこう書いている。「物語は、子どもたちにとって経験の代わりではない。物語は彼らにとって、実際のできごとと同じぐらい身近で、心を動かされる経験そのものなのだ」。そのため子どもたちには、なるほどと思える物語と、本のなかで見聞きしたことをよくわかるようにかみくだいてくれる知恵袋が必要だ。


p.191

子どもたちが、情報の洪水の中で、だれの助けも借りずに自分のやり方を見つけるようになると考えるのがそもそも無理な話である。電子化されたデータベースを使うことは、じっさいのところ子どもの遊びなどではない。図書館に行って、たとえば野生動物に関する本のセクションを見て回るようなことは子どもでも簡単にできるが、インターネットでいろいろ検索する方法ははるかに難しい。


p.318

将来に向けて、テクノロジーを人間に添ったかたちで慎重に利用したいのであれば、まずわれわれ自身が、いつ・どのような形で子どもに対してコンピュータを活用するかを、人間主体に、分別を持って考えなくてはならない。子どもたちには最新技術に対して批判精神を持つことを教え、命ある世界の複雑さを示すことが必要だ。人間らしい価値観は人間によって教えられるのが一番である。コンピュータにその代役はとても務まらない。