齋藤孝『日本を教育した人々』

日本を教育した人々 (ちくま新書)

日本を教育した人々 (ちくま新書)


図書館で予約して読んだ。吉田松陰福沢諭吉夏目漱石の3人を取り上げて、彼らの教育者ぶりにコメントをつけていくスタイル。軽く読めます。齋藤さんがやっている、「すごい!すごすぎるよ!!シート」の取り組みとかおもしろい。
結局のところ、齋藤さんが言う、

私はつねづね、教育の基本とは「憧れに憧れる」構造だと思っている。先生が持っている憧れに生徒も影響を受け、同じような憧れを持って、「あれを勉強してみたい」とか「先生のようになりたい」と思うようになるのが教育である。(p.109)

というのが肝だと思う。こういうふうに思わせてくれる先生がどれだけいるだろう。若いうちにこういうふうに思わせてくれる人に出会うことこそが、子どもの幸せだと思う。で、こうした人に近づくために先生がどれだけ熱く狂えるか、なのだろうな。梅田望夫さんの『ウェブ時代をゆく』の中にあった、「人生を埋めている人」になれるかどうか、だよね。
以下、メモ。

p.20

教育の根本は言葉の力のうちにある。その言葉の力は何を軸にしていたかというと、漢学の力だ。中国語を書き下し文のように日本語に変換し、漢字の熟語を自由自在に応用できる力を持っていた。そのことが、新しい概念をつくったり考えを広げたりしていくときに、大変役立つ武器になったのである。

福沢諭吉の洋学、吉田松陰の漢学、どちらも彼らに大きな力になっている。


p.29

そこにあるのは「狂」という字がつくほどの情熱である。この場合の「狂」は、頭が狂っているというよりは、そこまで情熱が煮詰まって、沸騰しているような状態のことである。頭はしっかりしていて、理屈も通っているのだが、「やらなければいけない」という思いや志が沸騰している。それが「狂」という状態である。


p.42

いま私は、教師を目指す人々に向けて、「すごい!すごすぎるよ!!シート」というのを作っている。そして「遺伝子」や「不定詞」「大化改新」「廃藩置県」などのテーマを与えて、熱く語るレッスンをやっている。たとえば廃藩置県について熱く語れない人は、もう歴史を語る資格なしというような感じでレッスンを進めるのだ。
たんに知識の羅列ではいけない。その意義をクリアに捉えて、そのすごさがいかに自分自身に伝染して、化学反応を起こしてしまったのかを語らなければいけない。「これは、こんなにすごいんだよ」という、教師自身が知識と遭遇したときに経験する化学反応を生徒にも引き起こさなければならない。


p.85

西洋では演説の上手な者が人心をつかむのだから、そのためにどれだけの準備をするかは、もう涙ぐましいほどである。一方、日本ではあいかわらずで、総理大臣の所信表明演説も棒読みのような感じだ。


p.87
「読書は学問の術なり、学問は事をなすの術なり。実地に接して事に慣るるに非ざれば、決して勇力を生ずべからず」(福沢諭吉


独立するには、まず勇気を持つことが必要で、学問はそのための道具であって、学問には実学が必要だというように、諭吉の中ではスッキリ整理されていたわけである。


p.109

私はつねづね、教育の基本とは「憧れに憧れる」構造だと思っている。先生が持っている憧れに生徒も影響を受け、同じような憧れを持って、「あれを勉強してみたい」とか「先生のようになりたい」と思うようになるのが教育である。