井沢元彦『逆説の日本史 6 中世神風編 鎌倉仏教と元寇の謎』

逆説の日本史〈6〉中世神風編―鎌倉仏教と元寇の謎

逆説の日本史〈6〉中世神風編―鎌倉仏教と元寇の謎


ということで、すでにシリーズ読みで後に引けないというか止められなくなっている、逆説の日本史。図書館で見つけた順に読んでいますので、歴史が行ったり来たり(笑)今回は鎌倉仏教と元寇。鎌倉仏教といえば、曹洞宗とか臨済宗とか日蓮宗ですね。言葉としては習いましたが、その内容までは覚えちゃいません。基本のところをずらりと説明されましたが、あまりよくわからない(笑)宗教についての説明、高校時代も嫌いだったっけなぁ、と思いだしました。
おもしろかったところはいくつかありますが、日本が昔は中国銭(宋銭や元銭)を使っていた、という部分で、こないだ新婚旅行に行きましたカンボジアを思い出した。あの国も、独自の通貨を持っているのに町で流通しているのはUS$なんですよ…。なんでだー!と思いましたが、日本だって昔は同じだったのですね…。
それと、後醍醐天皇についての評価が二転三転するあたり、歴史は政治によって解釈がどんどん変わっていく、ということを実感。もともと、政治的な意図と歴史教育、観たいな部分を卒業論文として書いたこともあり、このへんについては興味があります。政治体制が変われば、教えられる歴史が変わる。国家関係がよくなったり悪くなったりすれば、その国に関わる歴史事象についての記述が変わる。あたりまえだけど、そうして「教えられた歴史だけ」を信じてしまう子どもを育てたくはない。学校の歴史の授業で習うのも一面。実際にその国の人と話をして知る事実も一面。なるべくいろいろな面を見て育ってほしい、その国についての理解としてほしい、というのが教育業界に入ったきっかけでした。インターネットを通じてさまざまな交流ができるようになっているのだから、こういう歴史教育についてもまた考えていきたいと思います。
以下、メモ。

p.404
建武の新政について:
建武」という年号は不吉だったらしい。
・「武」という字が兵乱を呼ぶ、不吉な文字だから。コトダマイズムの信奉者であった平安貴族たちの見解。
・中国では「建武」や「大武」という年号は普通だが、日本史では一つもないことを認識すべき。
・中国も日本も律令制であり、年号を持つが、中身はこれだけ違う。
・日本の歴史教科書では「言霊」という言葉すら載っていないが、言霊の影響は現在にまで残っている。


p.424

奈良・平安の昔に、調停が銅銭を鋳造したことはあった。しかし、質・量ともに満足のいくものではなかったため、十世紀頃からは輸入の中国銭(宋銭・元銭)などが流通するようになっていた。

p.428
建武の新政の失敗:
後醍醐天皇への不満は、武士階級だけでなく公家からも起こっていた。


後醍醐は、自分に従う者には異様に手厚く、自分の政治理念に反する者は公家、武士を問わず酷薄だったのだ。
倒幕に成功した後醍醐が京都に復帰した時に、まず何をやったか?関白の廃止である。関白というのは藤原氏(五摂家)が平安時代中期より勤めてきた「天皇代理」という役職であり、巨大な利権でもある。後醍醐はそれを取り上げたのだ。しかも、既に述べたように八省の長官に高級公家を任命することによって、逆に「高級公家会議」を解体し、天皇の専制権を強化した。
後醍醐のやったことは、公家にとっても先例を破壊した、とんでもない行為であった。
後醍醐は秩序紊乱者である。
それが真実なのに、なぜそういうイメージが薄いかというと、戦前の皇国史観でこの「建武の中興」を「天皇親政だから正しいこと」と捉えたからである。強引に「正しいこと」(だから中興になる)にしてしまえば、それは秩序の回復であり、武士はともかく公家は絶対的に支持していなければおかしなことになる。