高橋団吉『新幹線をつくった男 島秀雄物語』

新幹線をつくった男 島秀雄物語 (Lapita Books)

新幹線をつくった男 島秀雄物語 (Lapita Books)


新幹線が昔から好きで、どんな人が作ったのだろうという小学生みたいな動機で読み始めた本ですが、すっごい良かったです。
終戦の日だって止めなかった鉄道マンの頑張り、技術をひたすら積み上げて作った新幹線、努力を惜しまず高い理想を追いかける教育風土を持った家庭。さまざまなヒントが中にある本だったと思います。何かの時に立ち返りたい本。
以下、メモ。

p.10

だから、「デゴイチ」と「シンカンセン」が、まったく同一の人物によって計画され、設計され、そして実現されたという話を知ったとき、わたしはたいへんに驚いた。


p.10-11

「すべては戦後にスタートした」
「日本の現代史は、1945年8月15日にゼロ・リセットされた」
わたしたち戦後民主主義教育に純粋培養された世代は、ともするとこう思いがちである。しかし、そうではないのである。近代産業社会という大きな流れでみれば、明治以来、わたしたちは同じレールの上を走り続けている。とりわけ鉄道に関しては、いわば明治130年史観とでもいうべき尺度で考えたほうが、むしろわかりやすい。


p.34
父・島安二郎が秀雄の外遊費用=けっこうな出費を用意したことについて:

安二郎さんが偉かったとわたしは思うんですよ。ここぞという機会のあったときは、無理をしてでも子どもに投資する。それが将来、社会のため日本のためになる。そういう考え方が島家にはあったんです」
(島多代さん・島秀雄の息子の妻)


p.80-81

アメリカ合衆国を筆頭とする連合国側は、当初、日本の鉄道は度重なる空襲によって破壊され、再起不能であろうと考えていた。(略)しかし、どっこい日本の鉄道は生きていた。
日本の鉄道は、一日たりとも止まっていない。8月15日でさえ、鉄道は平常通り動いている。劣悪な石炭を機関車にくべ、壊れた窓に板きれを打ち付けて、扉の閉まらない電車を焼け跡に走らせ続けた。明日知れぬ焦土で運行死守を貫けたのは、当時の鉄道人のプライドである。島によれば、「職員全員が歯を食いしばって頑張った」からであった。


p.255

島家では、何事につけ、手を抜くことを許されなかった。95点のテストを秀雄が目にすると、「なぜ5点減点されたか」と問われる。
毎日、夕食は7時定刻であったが、夕食後、母を手伝って食器類を片付けてからは、父・秀雄みずから勉強をする。毎夕、役所から紫色の風呂敷一包み分の書類を持ちかえっては、食後に目を通し、そして外国の文献を読んだ。
島は、酒が飲める。強い。しかし、酒量があがっても、額に青筋が一本立つだけで、決して乱れない。宴会は必ず一次会で切り上げて、帰宅する。そして、勉強した。
こういう父親が自宅にいれば、子供たちとて勉強せざるをえない。(略)
困難を努力で乗り越えて、高き志を。島家の子供たちが、暗黙のうちに教えられた家訓、いわば最低限のモラルだったのである。


p.274-275
1903年10月27日に、ドイツAEG社が試験者で210.2kmを記録したといわれる


島は、こんなふうに続けている。
「むろん彼ら90年前のドイツの技術者たちも、実用化を断念するんです。しかしそれは“いまはダメでも将来はいけるぞ”と考えて諦めるわけです。技術というものは、そういうものだと思います。とんがった部分だけをツマミ食いしても、しょせんものにはできない。全員が反対しているときには、どんなに自分に自信があっても、駄目なんですね。もしかしたらできるかもしれないな…と思いはじめる人が半数近くでてくれば、これは、もう努力すれば必ずできるんです。


p.281

高き理想をかかげて、努力を惜しまず。スターを作らず、スターにならず。個人の名誉より、人類全体の知見に貢献せよ。その島流のモラルと哲学は、技術の世界を超えて、広くわたしたちに多くの示唆を与えてくれます。