林雄二郎・山岡義典(編著)『フィランソロピーと社会』

フィランソロピーと社会―その日本的課題

フィランソロピーと社会―その日本的課題


1章の林雄二郎さんの福沢諭吉論がおもしろい。「公智→私智→公徳→私徳の順に優先」というのも非常にわかる。一人で知識やノウハウを使うのではなく、それを広げることに価値を置いた、だから学校を作った。ぶれがないなぁ。
フィランソロピーのことについて知りたくて読んだのですが、福沢先生のこと中心に読んでいきました。

p.7
福沢諭吉文明論之概略
・智と徳であれば、智が重要(より多くの人に資するから)
・智も徳も公私があり、公が重要
・公智→私智→公徳→私徳の順に優先される


p.7-8

福沢のいうところの私智と公智についてもう少し考えてみよう。私智というのは要するに一人一人の人間の持ち合わせている智力といおうか、一人一人の頭脳の能力としての智力であって(略)、
ところで、このような一人一人のもっている個人の能力としての私智を、その人だけにとどめておかないで、それを社会全体に広げる。そして社会全体の能力を高める工夫をつくす。その結果として社会全体の能力が向上する。つまり私智が公智になっていくのである。しからばこのような私智を公智にまで高めていくための工夫とはどのようなことか、それは具体的にいうと、いちばん手近なところからいうならばまず討論の仕方、契約のやり方、裁判の進め方、といったことから、ある個人が発見あるいは発明した新しい工夫を単なる技能の段階にとどめておかないで体系的な技術として展開していき、それがひいてはさまざまな科学技術をベースにした工業文明を構築していく。こうしてもともとは個人の頭脳の能力にしかすぎなかった智力を、社会的能力としての智力にまで広げていくことが可能になる。そしてこのような工夫、手だて、プロセス、そうしたものを総称して福沢は公智と名づけたのである。これは福沢諭吉の偉大な発見といっていい。