梅田望夫/茂木健一郎『フューチャリスト宣言』

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)


いまいちばん気になってる2人の対談。発売直後から読みたかったのをようやく読めました。「好きということのすさまじさ」ということに関する言及があるのだけど、本当にそうだなあ、と思った。自分自身はどうだろう?自分が「すさまじいほど」にすべてを傾けて考えるなら、何だろう。キーワードを3つ挙げるなら何だろう…。カリキュラム、世界平和、コミュニティ、かな…。大きすぎるかな、これじゃ?
ほかにも気になっている内容をいかにメモ。

p.69
(梅田さん)

そこがウェブ2.0。あれはある種の発明で、要するに不特定多数の人たちが勝手にタグをつけることができるという仕組みは、短いプログラムで書けるわけですが、それを作った瞬間にワーッとタグがついた。タグは分類学、図書館情報学に沿ってつけなければいけないという常識をひっくり返した。タグなんていうものとは専門家しかつけられないと思うんじゃなくて、誰でもいいから思いついたタグをつけてくれと言うと、いろいろなタグが、それらしいタグを中心に分布する。その全体でなんとなく正しいタグがついたと考えよう、ほとんどコストなんかかけずにねと。この考え方がウェブ2.0を象徴しています。


p.73
(茂木さん)

僕はじつは、日本と欧米のウィキペディアに対するアプローチの違いに、ちょっと懸念を抱いています。英語圏では、議論が分かれることについてはウィキペディアの本体には書かないという原則がある。たとえば人物について、本体部分にはその人が何をやったかという「事実」を淡々と書く。ところが日本では、本体部分にも書き手の価値判断が入ったことが書かれることが往々にしてある。英語圏でのパブリックなものに対する感覚は、やはり見習うべきものがありますね。もっとも、日本でもこれだけ膨大な人がブログを書くようになったということは、日本人がパブリック・ライティングの訓練をする、歴史的な教育機会だと思います。


p.116

(梅田さん)
僕は、「好きということのすさまじさ」という言い方で、『シリコンバレー精神』にそのことを書きました。とにかく、朝から晩まで情熱を傾けられることは何?ということを問う競争。対象はもうなんでもいいと。グーグルっぽい言い方をすると、キーワードで2つか3つ、自分が熱中する対象の言葉が並ぶと、検索結果ではその人が上からザーッと全部来るみたいなことを目指す。それが志向性や、好きということのすさまじさ、あるいはウルトラ専門性とか。かつては専門というのは大きなくくりだったんだけど、いまは1人に1個ずつ専門がある。そういうことなのかなと。

(茂木さん)
まさに、そういう時代ですね。とんがり方が人の数だけある。

(梅田さん)
そういう意味で言うと、アメリカの教育というのは知らず知らずのうちにこれからの時代に親和性が高いのかなと思ったりするんですね。というのは、モノを知らないでしょう、アメリカ人って。関連領域を全部学んだ上でなきゃ自分の意見を言っちゃいけないみたいな抑圧の対極にあるから。「お前はどう思う?」と本格的に勉強する前の小学生くらいのときから問われ続ける。そういう教育をしますよね。「お前はどう思う?」「お前は人と何が違う?」と問われ続ける。それがずうっと続くから、自然と自分のアイデンティティを決めていく。それによってサバイバルできる。