森口朗『戦後教育で失われたもの』

戦後教育で失われたもの (新潮新書)

戦後教育で失われたもの (新潮新書)


ちょっと極端かな?と思うところも多かったですが、大方賛成。下のようなことをきちんと言える人って、余りいないと思う。

確かに学校には不条理な点が多々ありますが、それでも社会よりはずっと「ぬるい」世界です。そんな「ぬるい」世界に耐えられない者が、厳しい社会で逞しく生きていける訳がないのです。

以下、メモ。

p.77

百ます計算は、教室で学力をつけるのには向いているけれども、家庭教育、とりわけ低学力児の家庭教育には不向きだというのです。
というのは、学力の低い子どもというのは、そもそも家で机の前に座らないからです。机の前に座らない子どもに百ます計算をさせろといっても不可能です。
「馬を水のみ場に連れて行くことはできても馬に水を飲ませることはできない」という諺がありますが、低学力児の家庭は、馬を水のみ場に連れて行くことさえできない家庭がほとんどなのです。


p.81

皆さんは、「仰げば尊し」の2番の歌詞をご存知でしょうか。
立身出世主義がけしからんと攻撃されて戦後歌われることのなくなった2番を堂々と歌える日が来ない限り、子どもが学校に行って「勉強しなきゃ」と思う日は来ないでしょう。

互いに むつみし 日ごろの恩
 わかるる後にも やよ わするな
身をたて 名をあげ やよ はげめよ
 いまこそ わかれめ いざさらば」


p.99-100

中学校は確かに義務教育ですが、一日も出席しない者を卒業させてよい理屈はありません。今でも、家庭の事情で中学を卒業できなかった人のための夜間中学は存在します。一日も出席しない不登校児を卒業させるなど、働きながら夜間中学で学ぶ人々への冒涜ではありませんか。
不登校児のための高校にいたっては言語道断です。中学を卒業させたこと自体が間違いなのに、彼らのために普通よりも卒業しやすい高校を作ってやる。昼夜逆転しているのなら朝から学校に行かなくてもOK。単位もゆっくりと時間をかけて取ればよい。
そんな高校が、まともに勉強している子どものための学校よりもずっと多額の予算をかけて運営されているのです。
(略)
確かに学校には不条理な点が多々ありますが、それでも社会よりはずっと「ぬるい」世界です。そんな「ぬるい」世界に耐えられない者が、厳しい社会で逞しく生きていける訳がないのです。


p.111

多くの共同体は、準会員から正会員になるに当たって通過儀礼を要求します。
(略)
武士であれ農民であれ、通過儀礼には不条理が伴います。何よりも、「反抗が許されない」というのが合理的ではありません。
では、現代における通過儀礼とは何かというと、やはり学校生活です。意外かもしれませんが、日本以外の先進国では学校生活がしっかりと通過儀礼として機能しています。ところが、日本だけが機能していない。日本の学校の通過儀礼制度が著しく劣っていることは、高校生の意識調査にしっかりと現れます。
我が国の高校生だけが、「先生に反抗することは本人の自由」だと認識しているのです。日本青少年研究所が1996年に実施した意識調査ではこの手の規範の最もゆるそうなアメリカでさえ「先生に反抗することは本人の自由か」という調査に対し、イエスと答えた生徒はたったの15.8%でした。これに対し日本の高校生は79%がイエスと答えています。


p.116

欧米人の多くは、18歳までは未成年として親が面倒を見るけど、18歳を超えたら自分で生きていきなさいという感覚を持っています。しかし、「こいつら」は、いずれ食うに困るに決まっている。そうなると何をしでかすか判らない。だから、彼らに対する福祉対策、治安対策が必要である。これがNEET問題の基本です。
「高校にも行かずにたむろしている幼いゴロツキ」がNEETのイメージであり、犯罪対策や薬物対策をどうするかも議論の射程に入るのです。
くれぐれも、日本で問題となっている「ニート」とは別物だということを認識しておく必要があります。


p.124

私は現在の学校でニート対策に有効なものがあるとしたら、部活だけだと思います。野球をするために入部したのに一年生の間は球拾いしかさせてもらえない、顧問の先生の前では直立不動、先輩が「黒い」と言えば白いものでも黒い。このアナクロで不条理な世界(かなり色が薄くなりましたが)が部活には残っており、今の学校でニート対策に役立つとしたら、部活しかないと思うのです。
どういう訳か、部活動において教師は「学校的正しさ」から解放されます。負けてもいいから、下手な子どもでも一度は試合に出してやろう、という教師は(今のところ)少数派です。平等とはほど遠い先輩後輩の上下関係も、見て見ぬふりをします。
(略)
私は純粋なスポーツという側面だけでは割り切れない価値が、学校の部活にはあると思うのです。


p.190

「平凡な子どもが、平凡な大人になり、真っ当な社会人として生きていくための教育」
学校に求められているのは、そういう教育のはずです。
「これといった才能のない人間でも、親や先生を信じて精進すれば、真っ当な大人になれ、平凡だけれども幸せな人生を送ることができる」
私たちが求める社会とは、そんな当たり前の社会です。
「戦後教育」が理想とする社会を実現するために「正しい人」になっても大多数の日本人は幸せにはなれませんでした。それが60年間に及ぶ実験の結論です。これ以上、戦後教育的な価値観にこだわって、自分や子どもを不幸にするのは止めにしませんか。
教育を通じて育てるべき人間は、大東亜共栄圏実現のために命を惜しまない「天皇の赤子」ではありませんが、理想社会実現のために日本の歴史や文化や伝統を断罪する「正しい人」でもありません。
客観的には「普通」かもしれない、自分自身の能力や所属する共同体(家、学校、会社、郷土、国家など)に幾ばくかの誇りを持ち、その維持・向上に努力する。(略)
そんな普通の日本人であることが実は大切なのであり、我々が育て得る子どもも(大多数は)普通の日本人でしかないのです。
この現実を無視した幼稚な理想論と決別しない限り、戦後教育の不幸はいつまでも続くでしょう。