渋沢華子『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一 そしてその一族の人びと』

徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一―そしてその一族の人びと

徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一―そしてその一族の人びと


渋沢栄一の足跡について学ぼう、ということで。副題の「一族の人びと」という部分が本当にきちんと書かれている。後半生を知りたい、という人には前半がちょっと長いかな…。でも、人となりとかもわかっていい。以下、メモ。

p.100

栄一という人は、転んでもただでは起きぬ人。しかし世のため人のために起き上がる人である。


p.214-215
アーラン・シャンド(イギリス人、銀行計画顧問、『簿記精法』)が
イングランド銀行重役ギルバートの「銀行業者の心得」を座右の銘として紹介

一、銀行業者は丁寧にして、しかも遅滞なく事務をとることに注意すべし。
二、銀行業者は政治の有様を詳細に知って、しかも政治に立ち入るべからず。
三、銀行業者はその貸付たる資金の使途を知る明識あるべし。
四、銀行業者は貸付を謝絶して、しかも相手方をして憤激せしめざる親切と雅量とを持つべし。


p.284

栄一の歿後しばらく経ってからか、父秀雄が、短歌誌『アララギ』の中に「渋沢栄一翁の逝去を悼む」という一首を見つけた。
「資本主義を罪悪視する我なれど君が一代は尊くおもほゆ」
当時は、ちょうどプロレタリヤ運動が盛んになりはじめた時代だった。


p.287

栄一が、日本の銀行業に賭けたクリーンなロマンは、崩壊した。さぞあの世で憂い嘆いていることだろう。
彼は84歳の時、世の中が進歩し発展するに従って道徳は退歩する、と危惧感を語っている。
戦後の日本は、焼け跡から立ち上がり高度経済成長で自信をつけ、バブルという金の泡に悪酔いした。「欲望という名の電車」に乗せられみな常軌を逸し狂ってしまったのだろうか。
私たちの世代は、戦前戦後のあの飢餓感が忘れられない。馬の飼料の大豆かす等の配給で、雑炊をすする日々だった。町々から生活必需品がすべて悉く消え失せ、古い毛布で子供のズボンを作ったりした時代だった。あの頃を思い出すと、現代の溢れるばかりの物流、使い捨て文化に危惧感を抱く。
この両極限の対比が、空恐ろしく思われてならないのである。スピーディーなハイテク文明の両刃の利器は、物量の豊かさを生む。がその逆に心は空虚に貧しくなってゆくものらしい。結局、人間の「性」という個々の本質、「核」を改革しなければ、人類の精神的豊かさ、平和は、得られないのだろう。


p.288

栄一は、東洋思想論語をモラルとし、西洋の経済機構を日本に普及させた。未開の地を耕した栄一の生涯は、日本の産業開拓史に至誠の足跡を数多く残したのである。