橋本治『「わからない」という方法』

「わからない」という方法 (集英社新書)

「わからない」という方法 (集英社新書)


最近、学校とかで生徒を教えていて、「わからないからいいよ」「わからないからやーめた」「わからないからできません」という台詞を周囲で聞くことが多いんです。でも、そこで止まっていては仕方ないと思うのです。であれば、「わからない」という言葉に対してどういう姿勢で臨むかを自分なりに持つしかないのかな、と思い、そんなことを教えるのは可能だろうかと参考にしたくて読みました。
なかなかにおもしろかったです。橋本治さんっておもしろいな。引き出し多い。なんと編み物の本も出しているんだそうだ。自分が「わからない」と思ったときの例を出しながらの説明がわかりやすいですね。
以下、メモ。

p.13

「わからない」は、思索のスタート地点である。そこから始めればこそ、「わからない」は思索の「方法」となる。「わからないからやーめた」であきらめれば、そこは挫折のゴールである。「わからない」が「方法」になるかどうかは、それを「方法」として採用するかどうかの、決断にかかっているのである。


p.43

企画書に必要なものは、上司を驚かせる意外性と、上司を納得させる確実性である。意外性がなかったら、「なんだこんなもん」と言って、上司はその企画書を捨ててしまう。と同時に、上司というものは、びっくりした後ですぐに泣き出してしまう幼児のようなものだから、驚かせた後には、「こわくない、こわくない」とあやすことも必要になる。その「こわくない、こわくない」が、確実性なのである。


p.92

人間の理解というものは順を追って起こるもので、「教えられる側」には「教えられる側なりの筋道」がある。教える側は、それを把握しなければならない。でなければ、教えられる側に、「わかった」という理解は訪れない。「わかるでしょ?わかるでしょ?」といくら念を押されても、わからない者にはわからない。「なにをどうわかればいいのか」がわからない以上、「わかるでしょ?わかるでしょ?」の念押しは、なんの意味も持たないからである。


p.131

「初めはいい加減でもいい。慣れればなんとかなる。ちゃんとする」----このことだけははっきりしている。後は、その「ちゃんとする」のゴールのありどころである。これが揺らぐと「いい加減」は野放しになる。「初めはいい加減で、その後もいい加減」になってしまう。それを防ぐためには、ゴールの「ちゃんと」がいかなる状態かを明確に規定しなければならない。その規定がないから、「いい加減」が野放しになった。つまり、「日本人はいかに生きるべきか」をあいまいにしてしまった結果、「教育の崩壊」は訪れたということである。