齋藤孝『教師=身体という技術 構え・感知力・技化』

教師に必要な技術を、身体論の方から語っている本。なかなかおもしろかったです。「息を合わせる」というのを教壇の上からできたときは、本当に気持ちいいもんなあ。その機会を多くするために、ノウハウを自分なりにためていかなくてはだめなんだな。

以下、メモ。

p.8

現代日本においては、この虚無主義的な世界観を抱かざるを得ない最初の経験は、多くの場合、決定的に悲惨な状況においてではなく、やる意味がわからない勉強をやらなければいけないことになっているという状況にはめ込まれたときに起こっているのではないだろうか。なぜこんなつまらない勉強をやらなければならないのか、という問いは、曖昧な将来への不安をかきたてる答えしか得られず、問いを問い続けること事態を競争の中で自ら抑圧していく。
このいかにも日常的な子どもたちを取り巻く状況が、学ぶことが楽しいことであるという子どもたちが本来持っていた学習への構えを日々つき崩していく。


p.142

教師は、自分の感情、思考を冷静に見つめることによって授業を展開する言葉を発することができる。教師の感じる雰囲気は、自分の身体的状態感であると同時に、授業の流れの中で授業内容との関係において把握されたものでもある。教室全体の雰囲気に自らを溶け込ませる一体化的構えを持つと同時に、場の雰囲気から一歩退き自己と他者とを冷静に見つめる二重の構えが、教師の専門性として考えられる。


p.144

神田橋(條治)は、聴く技術向上のためのコツとして、「ほう」という応答の使用を挙げている。「ほう」という応答の優れた点は、「間や、トーンやアクセントの加減次第で、さまざまの意味を付与して投げかえすこと」ができることだけではなく、「意識して意味を付与しながら『ほう』を使うように努めると、自然に表情や姿勢が同調して、好奇心、驚き、同情、軽視、疑いなどの非言語レベル表現が上達する」ことであり、「聴く作業における姿勢や、応答としての身振りを身につけるための最短距離」だとしている。


p.273

子どもの「動き」を捉える教師の力において牛山(栄世・はるとし)が重要視するのは、「活動の立ち上がり」であり、立ち上がりの「きっかけ」である。(略)教師がある変化を「立ち上がり」を捉えることによって、その変化が「学びのきっかけ」となる。子どもの動きの「立ち上がり」を捉えるために、教師に求められるのは、単なる注意深さではなく、牛山の言葉を借りれば、「いきさつ」を「察する」力である。教師が子どもに何かを「する」のではなく、子どもにおいてそのような出来事が起こる、あるいはそのような事態に「なる」という成り行きを見守るという教師の<構え>を、この「立ち上がり」という表現に感じることができる。


p.305
グループディスカッションのグループ分け

今までの経験から、同姓だけでかたまると活性化しにくく、男女がうまく刺激し合ったときにはクリエイティブになりやすいと感じていた


普段の友だち同士で組まないという指示を与えるのは、緊張感のある関係を作り出すためである。互いに知り合いでない関係は、ロジャースのエンカウンターグループに見られるように意外に本質的な話題に直接迫ることを容易にする。クリエイティブな関係性が、単に仲がよいというだけの関係ではなく、なれ合いではない緊張感をその本質に持つということを体でわかってもらうためにも、この指示は重要である。


p.311
名前覚えゲー
・総当り的に、お互いの名前をはじめとする3つの情報を交換していき、一通り当たったところで(約10分)3人グループを作って、全員が丸くなり、グループごとに相談しどの程度覚えられていたか(3項目x人数が満点)を紙に書いて競うゲーム
・ゲーム前に、名前を覚えることが相手の存在を認知していることの表現であり、それが教育の基礎としての基本的信頼関係を築くコミュニケーションの第一歩であり、教師にとって大事な仕事の一つであることを、教育実習などを例にして話した。


p.353

教育の質を問う私の基準は、シンプルである。それは「そこに学びはあるか」というものだ。教えることがあってもそこに学びが起こっていないのならば、そこには教育は成立していないと考える。「教える」ということを軽視しているわけではなく、学びの深さによって教える行為を吟味するということだ。はじめに誰に何を教わるかによってその後の成長の筋が決まる実感は誰にでもあると思う。たしかに近代学校制度は老朽化してきているが、教室が教師次第で天国にも地獄にもなるのに今も昔も変わりはない。