近藤孝弘『国際歴史教科書対話 ヨーロッパにおける「過去」の再編』

国際歴史教科書対話―ヨーロッパにおける「過去」の再編 (中公新書)

国際歴史教科書対話―ヨーロッパにおける「過去」の再編 (中公新書)


僕は、大学の最後のタームペーパーは、歴史教育について考えるものにした。戦争をなくすために、他国の人を殺すのに「NO」を言えるようになるのはどうすればいいのかをずっと考えていて、その根っこのひとつは歴史観なのじゃないか、と思ったから。歴史は学校で習って知ることが多いので、実は歴史観というのは学校で育てられる。しかも、歴史観はだいたい国として「こういうのを持て」というのがある。国によって歴史観が違うから、いろいろと対立につながったりするのだと思っていたから。
ちょっと前に(この本でも述べられているけど)、ヨーロッパで統一教科書を作ろうという動きがあったときには、けっこう期待した。でも、難しいとも思っていた。歴史なんて、結局誰かの語りでしかないわけなので。その通り、難航しているみたいです。
ずっと昔から努力はされていたのですね。全然知らなかった。いい勉強になりました。タームペーパーは、今の仕事に就くきっかけにもなったもの。もう少し深めていって、仕事にフィードバックしたいと思います。

以下、メモ。

p.2

近代に始まる今日の国民国家という社会形態は、その構成員に対して一定の国民意識を要求する。もちろん、国民意識には様々な形が考えられる。その国家を支える憲法が表現しているもっとも基本的で普遍的な価値への支持、あるいは国家が約束する経済的な豊かさへの期待、これらは一人ひとりの人間のなかに国家への基本的な支持を呼び起こしうる。しかし、そのような理性の産物以上に、無前提の帰属意識・共同体意識を育むことをもって、現実の多くの国家は維持されているのであり、この過程では、学校教育とりわけ歴史教育が果たす役割が大きい。
教科としての歴史は、他に比べて最も実用性の乏しい学習領域の一つだが、個々人に対して「国民」すなわち「われわれ」に関する一種の定義を与えるという政治的に重要な役割を果たしている。


p.10
ドイツ歴史教育組合の機関紙『過去と現在』(1937, 1938)

生存競争のなかで自己を主張するために歴史から武器を鋳造することは、あらゆる民族の権利である。(中略)どの民族にとっても、歴史は民族の英雄の歌曲である。ある民族にとっての英雄は、他の民族の英雄ではありえない。


p.11

第一次世界大戦の終戦直後の1919年に、歴史教科書の問題がノルウェーからスウェーデンとデンマークに向けて提起され、それは、1933年には歴史教科書の相互検討を実現することとなった。さらに、北欧諸国の活動では、単に既存の教科書を交換して検討するだけでなく、それ以降に新しく出版される教科書は、事前に隣国の専門家委員会の鑑定を受けるという制度が導入された。実際に、この仕組みに基づいて、1933年から1935年まで3年のあいだに126冊の教科書が、印刷される前に国際的な検討に付されている。


p.12

公教育という枠組みのなかで、歴史教育は自らの国民・国家を賛美する傾向を中核に組み込んだ形で成立している。しかし、北欧諸国の例は、そのような歴史教育のあり方は不変ではないことを明らかにするものであった。そして、ここに生じたように見えた希望が、戦後の国際歴史教科書対話の発展へとつながっていくのである。

p.28
ゲオルク・エッカート研究所
・付属教科書図書館において、豊富な教科書のコレクションが見られる
・1996年現在、世界90カ国13万冊に及ぶ歴史、地理、社会科教科書を所蔵
・特にドイツの歴史教科書については、18世紀にまで遡る戦前の教科書18000冊のほか、1975年以降に出版されたすべての教科書を収蔵


p.65
ナショナリズムという原理が各国民国家に対して、

単に領土の拡大を促したのではなく、領土の拡大を正当化する「歴史」理解をも発明させた


p.212

『ヨーロッパの歴史』は、戦後ドイツが行なってきた国際歴史教科書対話が目指したところの、歴史による恣意的なアイデンティティ形成の否定という精神を離れて、各国民・国家によるヨーロッパ史の奪いあいともいうべき状況をもたらすことになった。しかし、この責任をそれぞれの克服されざるナショナリズムにのみ帰するのは、やはり不当であろう。そもそも、ヨーロッパ自身が、『ヨーロッパの歴史』によって過去との連結を図り、現在を正当化するという戦略を選択したのである。