内田樹『死と身体 コミュニケーションの磁場』

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)


身体論ですが、そこから派生していろいろな方面に話が展開していきます。

個人的にいちばんおもしろかったのは、最後のアメリカの「国際感覚」というところかな。

p.177 「アメリカ合衆国の上下院議員のなかでパスポートを持っている人は全体の14%という報道がありました。8割以上の議員は外国に行ったことがない。これはおそらくアメリカには「外国」という発想がないからでしょう。(略)それぞれ別の50の「国」が整然と統治されているわけです。つまりアメリカ合衆国の存在そのものが「成功した国際社会」のモデルなわけです。ならば、このモデルが全世界に適用されるのは当然のことです。いろいろな考え方の人がいるけれども、一つの度量衡を当てはめて全員を階層化してゆけばきちんと統治されるはずだ、というのはアメリカ人にとって理念ではなく、現実の経験から引き出された「常識」なのです。」
なるほどね、と思いました。確かに、そういうふうに見える。ただし、アメリカ合衆国が成り立っているのは、「アメリカ人になるためのルール」にみんなが服従しているからこそ。それをそのまま国際社会に持っていくのは、やっぱりちょっと無邪気すぎやしないか、とは思います。

p.46

教師の仕事というのは、極論すればひとつしかない。それは生徒の先手を取って、先回りするということです。生徒に「この人は何を言っているんだろう?」という疑問を抱かせて、「後を追わせる」。ただ、それだけのことなんです。それが教師という仕事のアルファでありオメガであるとぼくは思っています。


p.50

「教育」とか「教え」とか「学び」は、根本的には「追うモード」、甲野先生の命名するところの「センサー・モード」に身を置くということです。自分の心身の感受性を最大化して、目の前で変化していくものを、わずかなビハインドをはさんでずっと追っていく。そのとき、身体の状態がたいへん理想的なかたちになる。
だから師弟関係において、師の後を追わせるのは、師をロールモデルにしてそれを「真似る」ということが目的なのではなくて、ロールモデルを「追う」という身振りそのものがすでにして十分教育的に機能しているからなのです。


p.66
マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』とは逆の生き延びるための知恵

「ハードになってはいけない。ものごとをただ受け入れてはいけない。感覚を消してはいけない。苦痛や怒りを敏感に察知しなければいけない。誰かがぶちのめそうとしたら、そんなことが起きる前にその場を立ち去れ。それでも間に合わないときは、全力を尽くして抵抗しろ。けっして相手の好きにさせるな。それが生き延びるためのただひとつの方法だ」
(略)
生死の境目にきたときは、感覚を消すのはひじょうにリスキーなことです。むしろ危険な状況になったときは身体感受性を最大化すべきでしょう。自分のまわりに起きたこと、ふだんならば意識にのぼってこない微細な情報、あらゆる状況の変化に反応できるように、液状といっていいほどのやわらかい身体にして、ほとんど微笑むように、全身をリラックスさせておく。


p.84

相手のことばが自分に届きましたよということを相手に示すいちばん効果的な方法は、同じことばを繰り返すことです。同じことばを繰り返すのは、意味性のレベルではなんの意味もないことに思われるでしょうが、じつは「あなたのメッセージがわたしに伝わりました。コンタクトが成立しました。パスが通りましたよ」ということを示すいちばんいい方法です。これはローマン・ヤコブソンのいう言語の交話的機能というものです。


p.105-106

教養はあればあるほど収拾がつかなくなるものです。というのは、教養は自分自身のシステムの絶えざる「書き換え」「ヴァージョンアップ」を要求してくるからです。それはつねに限界をはみ出ようとします。たえず未知の領域に入り込んでいこうとします。教養は人間が静かに自足することを許してくれません。「教養が邪魔をする」というのはほんとうなんです。
何が言いたいかというと、もちろん、日本人は教養がなくなったということです。というか教養の社会的機能を否定するイデオロギーがいまや支配的になっているということです。
それは「シンプルなことは、いいことだ」というイデオロギーです。単純で、うすっぺらで、平板で、つるつるぴかぴかした、構成要素ができる限り少ないものが価値のあるものとされています。それは政治の世界からメディアの世界まで、すべてに通じています。「話を簡単にしたがること」「白黒はっきりさせること」になんだか国中が熱狂しているようです。「話を簡単にする」というのは、要するに「できるだけ少ない語彙」でセンテンスを「言い切る」ということです。


p.107-108

感情をあらわす語彙がひとつ増えると、表情がひとつ増え、発声法がひとつ増え、身体表現がひとつ増える…。そうやって、人間の身体は割れて、緻密化していく。
思春期というのは、とにかく感情をどんどん割っていかないと「やっていけない」時期なんです。「自分の気持ちを乗せることのできる、『もっとあいまいな表現』はないか?」というのが、思春期の言語への取組の基本姿勢なんですから。
だからこそ、この時期の子どもたちは必死で古典を読んだり、外国文学を読んだりするわけです。そういうテキストのなかには、ふだんの生活のなかで教師や親や友人やテレビのコメンテーターがけっして口にしないような「見たことも聞いたこともないことば」がひそんでいるから。そのなかにはけっこう「来る」ことばがあったりする。
(略)
どれくらい真剣に感情の分節、表現の緻密化に取り組んだのかということが、その後のその人のコミュニケーション能力の発達にずいぶん関与することになるんじゃないかと僕は思います。


p.154
村上龍『恋愛の格差』より抜粋

わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中に生きている。だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなくてはならない。繰り返すがそれはヒューマニズムではない。わたしたち自身を救うための合理性なのだ。


p.161

考えてみれば当たり前のことですけれど、「どういう局面でそのことばが発せられるか」によって、私たちが口にする命題の真偽は変わってしまいます。
短期的にはオッケーだけれども、長期的にはオッケーではない。ある集団のなかの一部分の人間がやっている場合にはプラスなんだけれども、それ以上の人数がやってしまうとマイナスの方が多い。そういうことがあります。量的な変化によって、そのことの質的な変化が生じてしまうことが、倫理に関してもあるわけです。
ここが倫理について考えるときの、むずかしさだと思います。
(略)
「人を殺してはいけない」というぎりぎりの倫理的規範でさえ、平然と破られており、そのことをわたしたち自身べつに奇妙なことだと思っていないということは、「倫理とは一般的に妥当するものではない」ということを意味しています。


p.177

アメリカ合衆国の上下院議員のなかでパスポートを持っている人は全体の14%という報道がありました。8割以上の議員は外国に行ったことがない。これはおそらくアメリカには「外国」という発想がないからでしょう。(略)それぞれ別の50の「国」が整然と統治されているわけです。つまりアメリカ合衆国の存在そのものが「成功した国際社会」のモデルなわけです。ならば、このモデルが全世界に適用されるのは当然のことです。
いろいろな考え方の人がいるけれども、一つの度量衡を当てはめて全員を階層化してゆけばきちんと統治されるはずだ、というのはアメリカ人にとって理念ではなく、現実の経験から引き出された「常識」なのです。