内田樹・名越康文『14歳の子を持つ親たちへ』

14歳の子を持つ親たちへ (新潮新書)

14歳の子を持つ親たちへ (新潮新書)


内田先生の本。とても示唆に富む本だと思います。「親子関係がテンポラリーであることを確認しよう」という部分とか、「フィクションでもかまわないから、それを再構築しなきゃいけない」という部分とか、好きです。
変に子どもに理解を示すのでもなく、コミュニケーションに期待をするでもなく、「それでもやっていかなきゃならない」っていう立ち位置は、僕には「そうだよなぁ」と妙に納得がいくものだったりします。

周囲の親しい人たちが子育てをしています。いずれ、僕も子どもを持つでしょう(たぶん)。そのとき、どんなふうに接することができるのか、考えていこうと思っています。

以下、メモ。

p.5(内田先生)

「居着く」というのは武道の用語で、本来は恐怖や緊張のあまり足の裏が地面に貼り付いて身動きならない状態を指す。広義には「ある対象やある文脈に意識が固着して、それ以上広いフレームワークへの切り替えができなくなってしまうこと」をも意味する。つまり、恐怖のあまり凍りついてしまうのも、「葦の髄から天井覗く」のも、「井の中の蛙大海を知らず」もいずれも「居着き」の諸様態なのである。


p.7(内田先生)

疑問文というのは、世界中だいたいどの言語でも文末のイントネーションを上げることで示される。問う方がイントネーションを上げて、言語環境を「不安定な状態」にして、相手に「落として」もらうことで平衡を回復するのである。
だから問いかけた側はいわば「うわずった状態」、「答えの支えが届かないと倒れそうな状態」に固着してしまうわけである。問いかけた人間は相手の回答をじっと待っていなければならない。どんなリアクションが返ってくるか、それだけに全身の感官を集中させていなければならない。
一方、問いかけられた人間は、何をしてもいい。問いに答えてもいいし、握手の手を差し出してもいいし、歌を歌いだしてもいいし、足蹴にしてもいいし、背中を向けて帰ってもいい。
先に「?」のフキダシを頭に付けてしまった側は「居着き」、心身の自由を奪われ、付けさせた側はその問いかけをどういう文脈に置いて「料理」するかのフリーハンドを手に入れる。
これが「勝負」の基本構造である。
武道に限らず、教育であれビジネスであれ恋愛であれ、人間と人間が出会うときは、「先に居着いた方の負け」なのである。


p.26(内田先生)

「越えられない一線がある」というのは事実認知じゃなくて、本当は遂行的な命令だと思うんです。「越えられない一線」というものを構築せよ、という社会的要請なんですよ、あれは。それを強い言い方に言い換えると、「一線はある」っていうふうになる。「君の中に本能的な善性がある」っていう決めつけは、あたかも真理であるかの如く語られていますけれど、実はすでに遂行的な圧力を含んだ、一種の政治的言説なんです。
起源において、人間的なものはすべてある程度政治的なんだけれど、その起源における「作為性」を僕たちは忘れてしまう。人間がむりやり作り出したものを、自然の中にもとからあったものだと思い込む。「作為的なもの」を「当為的なもの」と誤認する。もちろん、誤認してもらって構わないんだけど、というか、誤認してもらわないと困るんだけれど。「大人」の方は「これは作り物だ」ということを心のどこかでわかっていなければならないと思うんです。
だから、もう一度、人間社会が成立した起源の瞬間まで戻って、「越えることのできない一線が私たちの内部に実在する」ということにしませんか、と(笑)。もう一回身銭を切って、フィクションを再構築しなければいけないんじゃないかと思いますけど。


p.55(内田先生)

ディベートなんて、コミュニケーション能力の育成にとっては最低の教育法だと思いますよ。こっちから半分の人はこの論点に賛成、こっちから半分の人は反対の立場から発言してくださいなんていうことをやったら、出来合いのストック・フレーズをどこかから借りてくるしかない。それをただ大きな声でうるさく言い立てれば、相手は黙る。そんなくだらない世間知を身に付けたって、何にもならない。そんなことを何百時間やっても、自分の中にある「いまだ言葉にならざる思い」とか「輪郭の定かならぬ感情の断片」を言葉にする力なんか育つはずがない。もっと大切なことがあると思うんです。まず思いがうまく言葉にならないで、ぐずぐず堂々巡りをする子に、「それでいいんだよ」と言って承認してあげること。


p.66(内田先生)

コミュニケーションに関して一番大事なのは、コミュニケーションの可能性に関して「期待しない」ことだと思うんです。コミュニケーションができる範囲を限定していって、その中でのパフォーマンスを高めてゆく。それをだんだんと複雑なものにしてゆく。僕はよく「修業」って言うんですけど。コミュニケーションって、決意さえすれば、もう翌日からすらすらうまくゆくって思っている人、けっこう多いでしょう。ほんとうは気長な修業が要るっていうことが忘れられているんじゃないかな。


p.71

(名越先生)
「あっ、この子表情が変わった」と思った時、いろいろ聞いてみると、明らかに「ああ、そうか、そういうことがあったんだ」という場面があるんですよね。そこで出会った大人もその瞬間に何かを彼らの中にふと発見したんだな、という場面が。「あれ、お前そんなことできるん?」とかね。あるいは「へぇー、そういうこと考えてるんや」っていうふうに。向こうからも驚きや喜びの表現があるんですよ。
(内田先生)
大人の側が見せるその驚きが子どもには必要なんです。子どもの喜びっていうのは大人に敬意を払われた、大人に一目置かせた、という経験なんですよ。人は愛のみによって生きるにあらず。愛だけでは駄目。敬意が必要なんです。だけど言わないでしょう。そういうこと。
(名越先生)
言わないですね。
(内田先生)
敬意っていうのは、自分が敬意を持った相手からしか、返ってこないから。


p.131

(内田先生)
子どもたちが置かれる集団っていうのは、均質性が高くなればなるほど住みにくくなるに決まってるんです。なのに、今の親たちはどんどん均質性の高い集団に子どもを送り込もうとするでしょう。これ、子どもを窒息させるみたいなもんですよね。所有している知識や財貨の共通性が高ければ高いほど、それを「持ってない」ということが致命的になるんだから。


p.134

(内田先生)
僕らの時代の教養って、俯瞰的だったですよね。好きでも嫌いでもとにかく読まなきゃいけない本には目を通して、「読んだぜ」って言って話題に遅れないように。「あ、あれはよ」みたいなコメントを一言入れないと落ち着かないという。そうすると、自分の知識はどこがどれぐらい足りないかということだけはわかる。「自分が何を知ってるか」じゃなくて、「何を知らないか」をチェックする機能を果たしていたわけです、あの手の教養主義は。でも、教養主義のいいところは、何を知ってるかじゃなくて、何を知らないかが分かることだと思うんですね。
今の子たちっていうのは、自分の興味があることに関してだけはものすごく詳しい。ゼミの最初の時なんか面白いですよ。自己紹介をするでしょう。すると、だいたいみんな「趣味は音楽」って答える。だけど、音楽で話題が3秒以上続かないんですよ。「私、音楽大好きなんです。音楽なしでは夜も日も明けません」「私もそうなんですぅ」「わ、何聴いてるの?私、スピッツ」「私、マリリン・マンソン…」(笑)。


p.138

(内田先生)
教養の定義として面白い言葉を聞いたことがあるんです。「somethingについてeverythingを知ってると同時にeverythingについてsomethingを知ってる」というんです。


p.148(内田先生)

(神戸須磨の事件を見て、)彼の気の毒なところっていうのは、彼の周りに彼程度の文学性に共感できる友だちが一人もいないってことなんですよね。友だちがいて、一緒になって「わかるよ」、「やってらんねえよな」って言い合って、個人的な妄想がある程度社会的に承認されると、ずいぶん心理的な内圧は軽減しますからね。もちろん、それだけじゃなかなか解決できないとは思いますけど。でも、潜在的に彼と同程度に危険な子供っていうのはそこらじゅうにいるんだということは踏まえていた方がいいと思うんです。


p.184(名越先生)

親がどう思っていようとも、子どもが親の望む通りに育つことなんてまずないです。子どもの集中力を削ぐようなことをあまりせずに、子どもを信じて親の方は控えて見てたらいいんじゃないでしょうか。子どもがグーッと一つのことにのめり込んでる時に、つい邪魔しちゃう大人って多いんです。意識をせずとも、いつの間にか邪魔しちゃってる。


p.191

(内田先生)
フェミニズムは母性愛を「幻想だ」ってきびしく批判してきましたよね。あんなのは家父長制的なイデオロギーなんだと。母性愛というのは内在するものではなくて、ある種の役割演技なんだって。まさにその通りなんですよ。
でも、「フィクションだからダメ」じゃなくて、「フィクションだからいい」って何で言わないんだろう?フィクションだから誰でもできる。内面にあるものだったら、ない人とある人の差ができるじゃないですか。演技だから誰でもできる。みんあに開かれている。
(名越先生)
それがやっぱり人間の自然な姿だと思います。この話の最初に「一線はあるのか、ないのか」っていうことは話しましたが、ないから恐ろしいんじゃなくて、それは全て教育できるんだって考え直せばいい。ちゃんと自分の中に携えることができる、と。ただほったらかしにしているからこんな状態になってるわけで。そういうことはやっぱり繋がってる話だと思うんですね。
(内田先生)
結局、あれやこれやのことっていうのは、おおかたは制度なんです。人間が勝手に作り出したものだって言われても、人間が勝手に作らなかったら、誰が文明を作るんだ。


p.194(内田先生)

親子関係も、テンポラリーなものじゃないですか。親と子が関わる時期ってほんとに短いです。僕、自分の子どもは「18になったら家を出る」って決め手育ててましたから。テンポラリーな関係だと思ってると、「取り返しがつかない」でしょう。18になったら出て行っちゃうわけだから、その後で「ごめんね」っていうわけにいかないから、いっしょにいる間には失敗しないように気をつけてました。家族関係が人を傷つけるのは、「後で何とかなる」と思ってるからでしょう。
(略)
今から一緒にいられる何ヶ月か何年間かの間に、直せるところをなさなきゃいけないと発想を変えてみる。そうすると、もっと具体的に「ここにある物をこっちに置きませんか」「夜寝るときにドア閉めませんか」みたいな、具体的にいくつかの提言をしてすり合わせをしてゆくことしかできやしない。関係がテンポラリーであるということは、言い換えると関係が具体的だということです。理屈なんか言ってもはじまらないから。