竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史』

立志・苦学・出世?受験生の社会史 (講談社現代新書)

立志・苦学・出世?受験生の社会史 (講談社現代新書)


なんとなく通ってきた「受験戦争」なのですが、ちょっとしっかり考えてみたいなと思って読んだ。特に、入試選抜方法の改革と受験産業とのいたちごっこのところとかがおもしろい。そうだよなー、と思うこと多数。
受験の結果ばかりに囚われるのは馬鹿馬鹿しいと思っています。でも、このゲームを降りるわけにはいかないのですね。そのあたりの背景とかも丁寧に押さえているのがとてもおもしろいと思いました。
僕らはずっと、ここに書かれていることの延長線上で学ぶ学校を決めて(決められて)きたわけで・・・。

以下、メモ。

p.21
第一高校(東京)
第二高校(仙台)
第三高校(京都)
第四高校(金沢)
第五高校(熊本)
第六高校(岡山)
第七高校(鹿児島)


p.47-48

「官職」願望行路とは勉強→賢人→官職→富貴の人生行路である。この「官職」願望行路も、のちの受験の時代における「給料取り」願望行路の原型である。「給料取り」願望行路とは、志望校に入学し卒業したら官吏、会社、銀行の勤め人になりたいという人生行路である。


p.48

江戸時代の上昇移動の野心は身分によって分節化されていた。そのことは武士が、「立身」を、町人が「出世」という言葉を使ったことと、その意味内容が異なっていたことにみることができる。武士が立身を使ったのはかれらの下位文化が儒学によって、町人が出世を使ったのはかれらの下位文化が仏教によっていたからである。立身は儒学の、出世は仏教の用語である。しかも意味内容も異なっていた。「知行の加増」が武士の立身の内容であり、「金銀家財」を多くすることが町人の出世の内容であった。武士の立身はもともとは戦場で名をあげること(武)だった。しかし武士が戦闘者から官僚に変容することによって勉学=能力(文)→官職登用の能力主義行路イデオロギーが台頭してきた。

p.132

「隠れたカリキュラム」とは、目に見え明確に意図されている「公式」のカリキュラムと区別して使われる。学校や教師が表だって語らないが暗黙裡に伝達されてしまう価値の体系が隠れたカリキュラムである。


p.133

民衆にとっての学校の隠れたカリキュラムは階層移動と地理的移動のセンスの伝達と動員化だった。したがってスクーリング(就学)そのものが勉強立身価値への包絡と等価である。しかも学校における成績主義は、門地や家柄によるのではない能力主義にもとづく競争のイデオロギーを伝達する。さらに近代的な学校建築や教材にあらわれた欧風文化=都市文化は都市への憧憬を伝達する。こうしてスクーリングは民衆の価値体系の変換を呼び起こす。階層的かつ地理的移動へのセンスへの変換がこれである。


p.178

いま予備校などの受験産業がおこなっているのは、試験が隠蔽する罠を明るみに出すことである。受験を単なる努力の積み重ねとみるよりも的確なストラテジーの行使とみる視点である。受験は要領とする意識がこれである。努力の神話が崩壊した時代においてはじめて試験の呪縛性=絶対化から解き放たれる。(略)
受験生にとって予備校がおもしろいのは、予備校には目標があるからとか教師が熱心だからというようなことではない。そこでは徹底的に試験が相対化され、暗号の位置におかれるからである。予備校は入試を秘儀的な儀式の位置から暗号解読ゲームに変換してしまう場だからである。試験の秘儀性が剥奪されることは、学校=教育システムの存立構造の秘密のカラクリを知ってしまうことである。それはアカデミズムの秘密-真理の探究というよりも、それ自体特有のルールにもとづいた知的ゲーム-をも知ってしまうことになる。この種の知ってしまう爽快さ(深刻真面目受験劇の相対化)がいま予備校が面白いの背景にあるはずである。


p.181

大学側からする入試選抜方法の改革がいつも受験産業に負けてしまうのは、予備校などの受験産業は入試を徹底した戦略ゲームと考えるのに対し、大学側は教育的意義や人間形成などの教育的言説を入試という排除ゲームに持ち込むからである。そのぶん大学側は戦略的思考ができなくなる。