内田樹 釈徹宗『いきなりはじめる浄土真宗』


内容的には、 インターネット持仏堂で読めるものです。とてもおもしろいな、と思ったのは以下の部分。

p.137

違う言い方をすれば、私たちは「世界の創造に遅れてきた」という自覚です。
「ヨブ記」の中で、「主」が告げるように、人間の人間性の核心にあるのは「私は私の起源に先んじて何であったかを知らず、死後に何であるかを知らない」という覚知であると私は思います。
喩えて言えば、「どういうルールで行われているかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していた」というのが人間の立ち位置だと思います。
このときに、「私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ」というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は「宗教性」と呼びたいと思います。

なんだか、すっごい納得しちゃったんだよねー。他にもおもしろいところはいっぱいありました。

以下、メモ。

p.27
(内田先生)

「悪がなされ、義人が不義で苦しんでいる」ことを批判する切れ味のよい言葉は誰もが競って口にしますが、それについて「私の責任です。ごめんなさい」と言う人間はどこにもいません。
政府を批判する人も、ナショナリズムを批判する人間も、家族を批判する人間も、学校を批判する人間も…どなたにも、ろくでもない制度の「共犯者」の一人として、あるいはその制度の「受益者」として、謝罪する様子はうかがえません。
でも、「謝らない人」というのは、要するに「子ども」のことです。


p.29
(内田先生)

よれよれの老人であろうが、脂ぎったオジサンであろうが、けたたましいオバサンであろうが、「責任者、出てこい」と叫ぶ人は原理的に「幼児」です。
でも、世の中を住み良くするのは「責任者、出てこい。なんとかしろ」と怒鳴る人間ではなく、「はい、私が責任者です。ごめんなさい、なんとかします」と言う人間です。そういう人が出てこない限り、世の中は少しも変わりません


p.42

G.W.オルポート
個人の特性に基づいたパーソナリティ理論を展開したことで有名。主著に『デマの心理学』『人格心理学』など

%要チェックや…

p.80
(内田先生)

武道の形稽古の場合、一つの形はつねに最後に相手を制して終わります。徒手でも杖でも剣でも「形が終わるとき」というのは、相手が死んだとき(あるいは次の致命的な加撃に対して、有効な抵抗ができない状態になっているとき)です。
短い形は数秒で終わります。そして、多くの形稽古では、「殺す側」と「殺される側」は形が一つ終わるたびに交替します。ということは、形の取り手と受け手は「殺す経験」と「死ぬ経験」を繰り返しヴァーチャルに体験しているわけです。
なぜ、そのようなこととするのでしょうか?
管見の及ぶ限りでは、形においては「受け手」がつねに敗北するのは、受け手の方が微妙に「執着」が多いように形が構成されているためです。
私の知る限りのことですから、違うものもあるかもしれませんが、武術の形は「先手」を取ったほうが負けるように構成されています。打ち込むにしても、握るにしても、抑えるにしても、「敵味方」の対立関係をまず立ち上げ、そこに支配被支配・攻撃防衛の二項対立関係を作り上げるのが「先手」を取るものの役目です。
それに対して、「取り手」は「後手」にまわるわけですが、その機能は「先手」を取ったものが立ち上げた「敵味方の対立関係」を解消することにあります。


p.88
西行
「ねがはくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」


p.92-93
(釈先生)
五戒について


五戒の「戒」はサンスクリット語でシーラといいます。「習慣を実行する」というような意味です。仏教では、神への契約といった律法はありません。戒律を破っても別に罰があるわけでもない。習慣づけていこう、という項目です。朝、歯を磨くのと同じように、生き物を殺さない習慣を身につけていこうじゃないか。お風呂に入らないと気持ちが悪い、と同じレベルで他人のものを盗まないでおけるような肌感覚を身につけようじゃないか、という感じです。


p.133
(釈先生)

手元のデータ(『宗教統制調査』文化庁)によると、全仏教とは約6,000万人から9,000万人となっていますね。神道は、約9,000万人から1億1,000万人。おお、ほぼ全日本人だ。このふたつをたしただけでも、人口の倍近いじゃねーか!

%そうなんだね…かけもちしてるってこと?


p.137

違う言い方をすれば、私たちは「世界の創造に遅れてきた」という自覚です。
「ヨブ記」の中で、「主」が告げるように、人間の人間性の核心にあるのは「私は私の起源に先んじて何であったかを知らず、死後に何であるかを知らない」という覚知であると私は思います。
喩えて言えば、「どういうルールで行われているかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していた」というのが人間の立ち位置だと思います。
このときに、「私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ」というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は「宗教性」と呼びたいと思います。

%これ、すっごい納得してしまった。ゲーム・プレイヤー・ルールというのだね。


p.142
(内田先生)

「かたじけなさ」を表明するためには、合掌し、お灯明をあげ、線香を焚き、賛美歌を歌い、聖書を読み、お経をあげ、瞑想をし、和歌を詠み…もう「できることは何でもやっちゃう」というのが人間の信仰心の本来の姿ではないでしょうか。

%うん、これわかる。生まれてきたことへの感謝で何でもやったし、何でも読んだ時期が僕にもありました。

p.143
(釈先生)

このように宗教を相対化して全方位に開く態度は、おそらく多くの読者が共感されることだろうと思います。しかし、浄土真宗という仏教は、このような態度とともに、“選び取る”“選び捨てる”という姿勢を重視します。

%と、ここで見解が衝突したところで、次巻へ続く。