ポール・ヴィリリオ『戦争と映画 知覚の兵站術』

戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)

戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)


ヴィリリオの本を読むのは2冊目かな。この本は、テクノロジーが戦争をいかに変えてきたのか、という考察。映画とプロパガンダと国民生活(というか、国民の政治感覚)というのは、とても深く関係しあっていると思っている。それを知りたいな、と思って。
意図的だったり深層心理だったりはしますけど、こうしてテクノロジーが生活をがんがん変えていくってのは、ちょっと怖かったりする。ちゃんと考えなきゃと思う。そのための材料として。

以下、メモ。

p.181

まったく意外なことであるが、ヒットラーは歴史上の人物のうちでだれをモデルとするのかと尋ねられた際に、予想されたビスマルクの名は出さず、何とモーゼだと答えたのである。
こうした魔術師的な独裁者たちは、もはや支配統治を行うのではなく、やはり演出を行っていたのだということが十分に理解されてこなかったのではあるまいか。


p.189

ドイツ軍はどの部隊にもカメラマンを配置し、彼ら才能豊かにして勇気ある連中は、1914年にグリフィスが挫折した地点を乗り越えて行った。つまり、どの連隊にもPK(情宣舞台)がおかれ、映画-軍隊-プロパガンダ、すなわち映像-戦術-シナリオの連動体制ができあがり、情報は即座に集約され処理されたのである。


p.190

1943念、カサブランカ会議終了の際に、回復の見込みなき病に冒されていた年老いたルーズベルトは、不注意にも総力戦の開始を宣言する。連合軍空軍部隊はそれ以降、新戦術を実行に移すのだ。すなわちこれこそ、限定された目標ではなく、地域全体の破壊を目標とする集中爆撃戦術であり、炎の嵐によってハンブルクを破壊した「ゴモラ作戦」、ルール川爆撃とそれが引き起こす黙示録的洪水等にその例が見られるものである…。今度はドイツ人の生き残った大衆がパン・シネマ、すなわち戦争と同様に全面的な映画のなかに放り込まれた。奇妙なことだが、人々はこの戦争がさらに壮大なスペクタクルとなり、ハリウッドの超大作や聖書物語の災禍に匹敵し得るものとなるように望み、総統の命令ならば惜しむことなく1日16時間労働さえも行う決意をしたのである。