金子勝/アンドリュー・デウィット/藤原帰一/宮台真司『不安の正体!メディア政治とイラク戦後の世界』

不安の正体!

不安の正体!


「戦争」については、ずっと考えていきたいと思っています。何ができるかわからないことばかりですけどね。せめて、自分の人生を人に決められたりすることがないように。また、大事なところでは自分の思う通りの生き方ができるように(小さいところは別にどうだっていいのです、実は)。だから、「どうなってるのか?」については知っておきたい。そう思って読みました。
メモをとっていて思ったけど、今まであまり好きじゃなかった宮台さんの言葉にけっこう「へー」と思ってるんだよね。これはけっこうびっくりかも。

大学生の頃に、歴史教育と世界平和のテーマで卒業論文(というかタームペーパー)を書いた。そこでまさに研究してたことも書かれてた。

ローティを持ち出してもいい。人権とは何か。公共性とは何か。ハーバーマスのような暇人は死ぬまで議論しているがいい。問題はいつも、誰を人と思えるか、何を仲間だと感じるか、でしかない。
犬の人権や、猫を仲間とする公共性を考えるやつは(滅多に)いない。問題は、黒人を犬だと思ったり、ムスリムを猫だと思う連中がいることだ。そこで必要なのが、犬の範囲、仲間の範囲を変更し、維持するための感情教育だと。これがローティのプラグマティズム。課題はいつも個別具体的にしかないというわけです。

そんな、ばっさりとハーバーマスを切り捨てなくても…(笑)でも、そう、これだよね。このアプローチを、教育からどれくらいまで突き詰めていけるだろう。
日常に埋もれてちゃだめだ。考えなくちゃ。

以下、メモ。

p.23
(藤原さん)
戦争に反対するアメリカのメディアのロジックが不十分だった
1)
「なぜ我々がこんな遠くの国のために死ななくちゃいけないのか」ということ
=周辺の戦争のためにアメリカ人が死ぬことへの反発があった
2)
金持ち胃の戦争だけど、戦うのは貧乏人という、南北戦争の頃からずっと存在するもの
=石油産業のために貧乏人が戦争に駆り出される
3)
国際政治の現実主義の立場から、この戦争は中東の紛争をかえって激化させるというもの


p.51

(藤原さん)
もちろん、武器を使ってはならないという定言と、武力を使わずに済む条件を国際関係のなかに探るという努力との間には、微妙な距離があります。僕は、政策としての軍縮には賛成ですが、武器がなくなれば平和が訪れるという理屈には、ちょっとついていけない。
でもいまは、そんな平和主義がひっくり返って、武力行使を過度に信用する、もう一方の極端に走ってる期がするんです。かつてはアメリカが強い武器で脅せば必ず平和が実現するっていう脅しと抑止の問題だったんですが、いまはそれを乗り越えて、強い国と一緒になって戦えば必ず相手を倒すことができるという戦争の正当化にまでいっちゃった。これは、ちょっと正気でかんがえられないくらいの希望的観測です。リアリズムとはまったく無縁の、軍事力の過信にすぎない。


p.54

(金子さん)
アメリカが北朝鮮に戦争を仕掛けたなら、万が一にも北朝鮮に勝ち目はないわけですよ。ただ心配なのは、負けるまでのプロセスです。北朝鮮が追い込まれたときに何をするのか、まけた後にどういうリスクが発生するのか、この2つが大問題なわけです。
アメリカにくっついていれば何もリスクは発生しないという考えはまったく馬鹿げているけど、イラク戦争の現実を伝える報道がないことも手伝って、そういうプロセスが想像できないんじゃないか。


p.68

(宮台さん)
でも、アメリカには、国務省的な、ワシントン国際協調派の流れがあって、一朝ことあらば、けっこう簡単にスウィングバックします。だから、アメリカをマルチラテラルな方向に操縦することが日本の国益になるのだという世論を、日本でつくればいいんです。
そういう世論をつくるのが、政治家であり、マスコミの役割です。ところが、不景気をも理由の一端とする中産階層のアノミーで、拉致問題があると、内政問題から目を逸らせたい政治家も、視聴率を取りたいメディアも、俗情に媚びて噴き上がってしまうわけです。


p.72

(藤原さん)
最大の問題は、アメリカに対抗する同盟とかにあるのではなく、アメリカ自身も服さなければならないルールをいかに形成するかという、まさに国際主義の問題なんだけど、もう一回そこに戻って考えなくてはならない。アメリカ外交そのものは、アメリカの理念とパワーを生かしていくという方向と、アメリカにとって有利な世界を作っておくという方向と、2つの極の間で揺れるんですよ。


p.98

(宮台さん)
アメリカン・グローバリゼーションと帝国主義的なグローバリズムの決定的な違いは、ヘゲモニーを行使される側、つまり服従する側の自発性にあるわけです。それはネオコンの思想的な正当性根拠にもなっているんです。
分かりやすく言うと、誰でも喜んでディズニーランドに行きたがるだろうという話です。ディズニーランドには表層と深層の二重性があります。誰もが行きたがるのは、表層にある多様性と自由ゆえです。
でも、ポイントは、深層が見えないということ。どんな物流やゴミ処理や汚水処理のシステムがあるのかが完全に不可視のアーキテクチャーになっています。だから、表層の多様性と自由が、どんな外界に対する負荷によって支えられているのかを、知ることができない。


p.101

(宮台さん)
アメリカからみると、軍事力一極集中化だって、高度情報社会化だって、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフの席巻だって、みんなが望んでいることじゃないか、みんながディズニーランドに住みたがっているじゃないか、となる。
だったら、そうしたみんなの望みを、積極的にかなえてあげようじゃないか、というナイーブな話になる。これがネオコン思想の正当性根拠になっているわけです。


p.168

(宮台さん)
つまり「動員力のある感情的フック」と「デプスのあるメッセージ性」は感嘆には両立しないにしても、後者にも注意が向かないと地域益にも国益にもならないぞというのがメディア・リテラシー論です。
ルーカス・システムみたいな観客たちの生理的機能に直接訴えるバーチャル映像を見せられて「すごい」と享受していたら、僕たち自身の利益にかかわる問題をちゃんと思考できなくなるぞと教育せよと。イギリスではメディア・エデュケーションといいます。
これについては、多くの先進国がちゃんと理解してきているのに、日本ではメディア・リテラシーというと、パソコンができるかどうか、ネットが使えるかどうか、みたいな、全然違った話になっちゃってる。
だから金子さんのおっしゃる問題に対処するには、感情的フックに釣られる形でメディアに関わると自分たちにとって不利益な事態を招くということを教育するという運動を、国民的に展開するしかない。


p.229

(宮台さん)
(マイケル・)ムーアがすごいのは「アメリカ的な害悪に対抗するためにアメリカ的なものを徹底的に利用すること」。確かにアメリカではカナダ的なメディア・エデュケーションの素地がない。そこでムーアは「悪がショービジネスなら、悪に対抗するのもショービジネスだ」と発想する。


p.240

(宮台さん)
でも、いまや問題は思考図式や政策図式の問題ではなく、メディア・ポリティクス上の問題になって来ているんです。
だから、短期的にも長期的にも、いつも具体的なイメージが求められる。その意味で、背後の権益を暴くだけでなく、どのように自由で公正で安全な社会を構築するのかリアルなグランドデザインを「目に見えるように」示していくことが必要なんです。
たとえば21世紀半ばまでに日本の労働人口は6割になり高齢化が進む。経済水準を維持するには外国人労働者の受け入れが不可欠。「すると治安が悪化するので一斉取締や監視カメラが必要だ」と石原慎太郎が言う。これが俗情に媚びるメディア政治の典型。
実際の因果関係はこう。既に外国人労働者への需要が大きい。でも受け入れない。だからブローカーが暗躍する。彼らに200万円以上借金して不正入国する。借金を返すために一所懸命働く。追いつかないと女は売春、男は窃盗。それでも追いつかないと「ここにパスポートと航空券がある。帰国したけりゃコイツを殺ってその足で成田から飛べ」となる。


p.242

(宮台さん)
俗情に媚びるメディア・ポリティクスには、カウンター・メディア・ポリティクスで対抗する必要がある。リアルな不安に「監視よりも信頼だ」などと理屈で対抗してもダメ。リアルな不安のイメージには、リアルな安心のイメージで勝負しなければならない。いわばリアリティ・ウォー(戦争)。


p.344

(金子さん)
だから、僕が言っているのは単純に「貧乏人を救え」ということではなく、たとえば低所得者層にも金が回るようにしないと、経済が合理的に回っていかないよ、社会ももたないよといった言い方をするわけです。


p.345

(宮台さん)
「価値観を共有せよ」という話でなく、「アーキテクチャーをうまく設計・選択し、人々がエゴイスティックに振る舞えば振る舞うほど負の外部効果が抑制されるようにする」というところです。


p.355
×抽象的普遍的な妥当性を要求するような「真理の言葉」
○時代時代、場所場所の個別具体的な問題を解決する「制御の言葉」


(宮台さん)
ローティを持ち出してもいい。人権とは何か。公共性とは何か。ハーバーマスのような暇人は死ぬまで議論しているがいい。問題はいつも、誰を人と思えるか、何を仲間だと感じるか、でしかない。
犬の人権や、猫を仲間とする公共性を考えるやつは(滅多に)いない。問題は、黒人を犬だと思ったり、ムスリムを猫だと思う連中がいることだ。そこで必要なのが、犬の範囲、仲間の範囲を変更し、維持するための感情教育だと。これがローティのプラグマティズム。課題はいつも個別具体的にしかないというわけです。


p.389

(宮台さん)
社会システム理論が明らかにしてきたように、見知らぬ者たちへの信頼には根拠がない。信頼してみたところが、たまたま破られなかったが故に、また信頼するという循環があるだけ。信頼は根拠の上に立つものでなく、単なる事実性をベースとする定常性に過ぎない。
その意味で、見知らぬ者たちを信頼できること自体が、近代社会にとっては巨大な成果であり社会的リソースである。と同時に、単に事実性をベースとする定常性に過ぎないから、極めて脆弱だ。9・11のようなテロが起これば、見知らぬ者への信頼は木端微塵だ。