苅谷剛彦・西研『考えあう技術』

考えあう技術 (ちくま新書)

考えあう技術 (ちくま新書)


西さんは、大学生のころにヘーゲルの解説書や現代思想の解説書でよく読んでいた人。刈谷さんは教育評価の運動をされている人。この二人の対談ということですごく楽しく読みました。実践ばかりでなく、こういう理論的なものも読まなきゃ、と思ったりもする。
メモを作ってみると、対談なのだけど抜き出してメモしたのは刈谷さんの発言の方が多い。なるほど、そんなものかもしれない。自分のスタンスが意外と現れてたり?

以下、メモ。

p.15(西さん)

じっさいいまの子どもたちは、幼いころから自分なりの消費生活を楽しんでいる。快を得ることを当たり前と思って育つ彼らからすれば、「集団のなかに入ること」および「勉学」は基本的には労苦・ストレスなのであって、それに耐える理由がハッキリしないならば、逃げ出したくなるのも当然だと思う。しかし肝心のその理由(勉学の意味)が、与えられないままなのだ。
こうやってみてくると、教育についての新たな理念(勉学の意味)を再構築し共有することが非常に重要であることがわかる。それは、大人が子どもたちに対して、「勉学は少々きつい面もあるが、だからこそ必要なのだ」と自信をもって言えるようになる、ということでもある。理由がわからないまま長期間勉学に従事させられる、という徒労感から子どもたちを解放しなくてはならないと強く思う。そうした理念の再構築と共有がなされないまま、ただ「基礎・基本の充実」を唱えても空振りに終わる可能性が大きい。


p.34-35(西さん)

いまの子どもたちはじつに一人ひとりが豊かな消費生活をもっている。(略)楽しいことが小さなころからたくさん与えられているのですね。そこに「なぜ、学校という我慢を強いるところに行かなくてはならないのか」ということになるのは当然とも言えます。
そこで大切なのは、「学校に行く」ということの新たな理由づけをどうつくりだし共有していけばよいか、ということになると思うのです。いじめをしてはいけないと教えるとか、不登校の子たちにどう対処するかといったさまざまな個別の対策だけでは不十分なのであって、学校へ行くことの意味を子どもも親も教員も共有する。「学校に行くのは辛いかもしれないが、でも学校に行く必要はやっぱりあるんだよ」というふうに、親も言えるし教師も言える、そして子どももそれなりに納得する、というふうにならないときつい。


p.50

(刈谷さん)
何をやるか決める前に、役に立つか立たないかは判断できない。決められるならば簡単だけど決めないことを前提にしたら、いつ役に立つかわからないことをなるべく多くの人に学ばせることを、なんとか個人の納得を離れてやらなければならない。一人ひとりの個人にとっての学ぶ意味の問題をひとまず脇に置いて、学ぶチャンスを広く与えておいたほうが社会にとっては健全だという判断を、近代社会はしたのだと思います。
ところが、その結果、学校へ行くことの意味がわかりにくくなるというマイナス面が出てくる。これは近代教育の矛盾といってよい。
(西さん)
自由であるためには一般的な知識を与えねばならない。しかし、それを学ぶということの意味はますますわからなくなる。


p.57

(刈谷さん)
突然社会に出て何かやれと言われても無理なわけで、大人になる準備が教育だとしたら、その経験を、失敗してもそのダメージが大きくならない環境のもとでやるチャンスを与える。そういう意味では学校というのは優れた練習の場だと思う。
徳目主義としてではなくリベラルな社会をつくりたいと考えたとき、その担い手となる人たちの結社をつくる能力は重要ですね。それを担う能力をつくるためには具体的にこういう失敗の場、練習の場が必要なんだということが見えてくると、それなら学校へ行く意味もあると思えるようになるのではないか。


p.78-79

(刈谷さん)
それとは別に、ある概念がいかに使い勝手がいいかと考えさせる授業もある。
(西さん)
「概念」の使い勝手、なるほどこれはうまい言い方ですね。
(刈谷さん)
社会契約というのが教科書に書いてあったら、なぜ今の時代にその思想が生きているのかを、高校生なら高校生にとって自分の生活にどうつながっていて、それが具体的にどう自分に関係があるのかを考える。たとえばイラクへの自衛隊の派遣にしても、われわれが日本という国家に対して契約として結んでいることと、それとがどういう関係にあるのかとか。現実の問題とのつながりを工夫するのは、先生のイマジネーションの問題であって、できないことではない。むしろやってほしいですよね。それができれば、教科書は学説史でもいい。
(西さん)
そうですね。刈谷さんのおっしゃるように教科書を使いこなしてしまえばよい。


p.140

(刈谷さん)
他民族性や異文化性ということだって、50年前だったら考えなくてよかった問題が今は起きている。そう考えると、リスクという要素だけでなく、社会や国家のありかたや統御のしかたまで変わってきました。自由を守るといっても、誰の自由かと考えたときに、たんに国民の自由というだけでは話は終わらない。
(西さん)
こういう時代に、学校は子どもたちに何を共有させていかないといけないのか、という課題が出てきますね。
(刈谷さん)
いま、高度化・複雑化の話をしましたが、OSは一緒ですよね。だから、基本的なそこのルールがわからなければ、問題が高度になると対応できない。
OSの選び直しの経験みたいなことは、まずは学校がしっかりと与えないといけない。


p.147

(刈谷さん)
面白いことでないとなかなか子どもは学ばなくなってしまうし、学びたくないことは学ばなくていいということにもなりかねない。
理解や知識を獲得することを通して世界経験を可能にする力がもてたという感覚を、どうやったら与えられるのか、そこは人間が育つうえで重要な部分です。


p.160

(西さん)
そのなかには戦争って嫌だなという、ある意味ではルールに関わるようなものも含むし、失恋のようなプライベートなことに関わるものもある。人の心が動くということのなかにはいろいろなものが織り込まれていますから、それを言葉にして共有しようとするのは面白いと思う。
(刈谷さん)
面白い。読書感想文だって書かせているけれど、なぜこれにひきつけられたのかという子どもなりの心の動きや、自分のなかで見つかった感動が、じつは共有可能なんだということを説得できるかたちで表現できることが大事ですよね。
(西さん)
そこが勝負どころですね。自分に固有な感覚を、言葉を用いて外に開いてみたら、他人から反応をもらえるし、「共有できるところもあるんだ」と思える。そういう経験は貴重なことで、他者関係を育てていくうえでも大切なことです。
(刈谷さん)
教育のなかでも大事だと思うのは、たんに赤裸々に自分のことを語るのではなくて、自分なるものを検証しながら、なぜ引き付けられたかを表現する。国語の教科はたぶんこういうところにつながると思う。


p.164

(西さん)
国語ではいま、文学中心のあり方を廃して、書く能力とか話す力をつける方向に向かおうとする流れがある。コミュニケーションスキルを身につけさせる、ということでしょうね。しかし文学作品も捨てたものではなくて、それをうまく使っていくと、作品に仮託しながらコミュニケーションをとっていく、非常にいい材料になると思います。


p.230
日本の教育基本法第1条:
教育の目的として、「教育は人格の完成をめざし…」

人格≒性格には2つの英語

personality:
・生まれながらにして個人が持っているもの
→いかに個性を大事にして、開花させるか
→まわりは邪魔/抑圧しない

character:
・勤労や労働を通じて、人は人格者(man of character)になる
→鍛え上げろ、経験しろ、つながれ。そうして育っていく
・役割と責任と承認がワンセットであり、これを積み上げてcharacterを作る