島田紳助・松本人志『哲学』

哲学 (幻冬舎文庫)

哲学 (幻冬舎文庫)


この二人は好きなコメディアンです。深夜に松本紳助っていう番組をやっているのを知っていて、そこから興味が出て読みました。文庫本だったしね。

ただのお笑いではくくれなくなっているこの二人。書いていることも刺激的です。メモしているところは紳助さんのところばかりになってしまいましたが・・・。この人の家族に対する考え方とか、自分はまだそんなことを思えたことはないけど、深くそうだなあ、と共感できました。

以下、メモ。

p.57
梅田花月でダウンタウンとサブローシローの漫才を見て、人気絶頂だった紳助竜介は解散を決意したのだそうだ。紳助さんの文章。


人間、誰かにちょっと負けてるなあと思ったときは、だいぶ負けている。だいぶ負けてるなあと思ったときは、もうむちゃくちゃ負けているものなのだ。
それで、その日のうちに僕は吉本興業の本社へ行って、引退することを告げたというわけだ。

p.82
松本の文章。

僕は番組というのは、自分の顔の数以上にやってはいけないと思っている。
いっぱいレギュラー番組を持っている人もいるけれど、どれもこれも、みんな自分の同じ顔で出てたりするのを見ると、どういうつもりなのか僕には理解できない。「みんな一緒やんけ」と思ってしまう。あっちこっちの番組で、自分の同じ顔を見せてもしょうがない。
自分の顔の数だけ番組を持つというのが、僕の理想なのだ。
この番組は自分のこういう顔を見せよう、あの番組ではこの顔、という具合に、自分の中でちゃんとすみ分けを考えながら僕は番組をやってるつもりなのだ。


松本紳助で見せたいのは:

自分の先輩と、というより自分より上の人と喋る松本人志の顔だ。
これを見せることが、僕にとってのこの番組をやる意味であって、笑いをとることが目的ではないのだ。


p.154
紳助さんの家族観。離婚話が出たときだそうです。こんなことを僕は言えるだろうか。きっと言えないよな…。:


僕ら夫婦は、俺がレーサーで、お前がメカニックだった。二人でチームとしてやってきた。それでいい成績をおさめたのは二人の成果や。俺が目立つ、お前は目立たない。だから『私は役に立ってない』とお前はヘコむ。でも、そうじゃない。メカニックとレーサーがいて、初めてレースに出られたんや。で、今お前がいうてることは、私も走ってみたいということや。これは俺としては、認めなしゃあない。私も人生一回は走ってみたいと、ずっとメカニックをやってくれたお前がいうんやから。俺はお前を愛してるから、それを認めて離婚しよう。走りたいんやったら、走るべきや。ただ、今まで得たものは折半や。これから俺が稼ぐ分についても、ずっと半分はお前にやる。それはずっと折半や。そういうことやったら、この話をのむ。

p.156

お前が俺と結婚したとき、俺が将来どうなるかはまったくわからなかった。走るか走らんかわからん馬に賭けたみたいなもんやから、その馬が走ってる限り配当は貰うべきや。走るか走らんかわからん馬を馬主として買うたんやから、その馬が引退するまで賞金の配当を受ける権利はある

p.163
紳助さん:

運動会のいちばんと、勉強のいちばんはまったく同じだ。それぞれの、能力の違い何だから、と。先生に聞いたって、それはそうだというだろう。
「そやのに、親も先生も駆けっこで遅い子は本気で怒らへん。一所懸命走ったんやからええっていいよる。なのに、勉強がでけへんかったら怒りよる。これはすごい矛盾してると思うんや。運動会の成績は許してくれるのに、なんで勉強の成績は許してくれんのか。おとうは、ちっちゃいときからそう思ってた。そんな区別はない。いちばんに走ることも才能なんだから。勉強でけへんでもいいよ」
そういうことを繰り返し繰り返し、話し続けた。
お前らが将来どうなろうがいっさい関係ない。なんの期待もしていない。愛しているから期待しないとも、僕はいい続けた。
「何もでけへんかった親ほどな、自分の子どもに夢をたくすんや。おかしいと思わへんか?自分がでけへんかったものを、お前やれって。無茶苦茶おかしいやろう。やった親がゆうんやったらわかるけど、でけへんかった親がいうのはおかしい。俺はべんきょうでけへんかったから、お前ら勉強せえなんていわへん」
僕は子どもに、勉強しろといったことがない。邪魔はよくするけど。
「もうええやんけ、そんな勉強したって人生変わらへん。それより遊ぼうや」
子どもが勉強してるとそうやって邪魔ばかりするので、いつの間にかあいつらは、僕が東京にいって留守の間に一所懸命勉強するようになった。

p.167

それなりに努力はしてきたつもりだ。
子どもの部屋には、テレビも電話も置かない。前の家は小さかったけど、それでも寝るまではみんなリビングに居させた。(略)子どもが自分の部屋に入ったら、すぐに呼ぶ。「降りておいで」って。
一人にさせない。
「籠もらしたらあかん」といって、いつもみんなと居させる。だからウチの子供たちは自分の部屋に籠もらない。みんなと居るのが普通なのだ。
あれが良かったんだと思う。話し続けること、そして触れあい続ける事が大事なんじゃないだろうか。

p.199
紳助さんの考える自由:


自由というものをはき違えて、日本人はアメリカ人から教わった。
自由ということを、我々は自分勝手と解釈したのだ。
その昔、日本に自由はなかった。自由な思想や、自由に考えるということはなかった。だからこれからは自由だといわれたときに、何をやってもいいと勘違いした。
自由というのは心の問題であって、自分勝手に行動しなさいということではない。自分に責任を持たなければ、この社会で自由なんて享受できるわけがない。
それをはき違えてしまった。俺は自由だ。権利がある。他人にとやかくいわれることは何もないんだって。それぞれに責任を負った人間が、みんなで支えてこそ初めて自由な社会が保たれるというのに。
そうでなければ、自由なんてただの絵に描いた餅なのに。
責任を負えない者に享受できる自由なんてない、ということを誰も考えない。
子どもに自由なんてないのだ、本来は。それを親までが勘違いして、子どもを放ったらかしにして好き勝手にさせているだけなのに、「ウチは自由にさせてる」なんていってしまう。
政治家が本とか書いて、日本の教育を考えなおさなければいけないとか、そういうことをいろいろいっているけれど、そんなの無理だと思う。
半世紀かかって骨抜きにされてしまったものを、そんな教育とかでなんとかできるわけがない。大人からして間違ってるのだから。