斎藤孝『身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生』

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)


正月から体調が悪かった時期が続いていたので、「身体」という自分にいちばん近いものをちょっと考えてみようと思い、読み始めました。でも、読んでいくうちに実は教育的にも応用が効く話がたくさん書いてあったので、すっかり研究モードに(笑)
「型」というテーマがとても刺激的です。「型にはまった」という悪い言い方もされますが、それよりもむしろ、機能的で無駄のない「型」を持つことの大切さ。学校では型を教え込むことは没個性だ、無目的だ、といわれてしまうこともある気がします。「型」をどのように認識して教えるかによるのでしょう。
「まず自分で考えてみる」「自分ならどうするかと考える」、その思考の「型」を教えていくことが大事なのではないかな、と思いました。

以下、メモ。

p.66
■言葉とともに失われる豊かな身体感覚の伝統(p.91)

作戦を「練る」と「立てる」の違い
寝るという行為は日常生活の中でほとんど行われなくなってきたので、この言葉も使用頻度が激減した。70代以上の老人は好んで「練る」という言葉を用いるが、若者が用いることは少ない。
(略)
「作戦を練る」は、数多くの作戦を比較吟味し、それぞれのよい点を組み合わせながらより良質な作戦へとブラッシュアップしていくことを意味する。練りあげられた場合の作戦は、たとえ単数であっても、その背後には吟味された数多くの作戦がある。練るという同士は、あえて困難をぶつけて柔軟性をもたせ、鍛えるということを意味している。この場合も、作戦がうまくいったケースではなく、うまくいかなかったケースという困難な場合をさまざまにシミュレーションし、その想像上の南極に柔軟に対応しうるものへと案を磨き上げていくのである。練るという行為は、数多くのアイディアを溶け込ませるということでもある。

→「考えを練る」や「文章を練る」も同様なのね。
→僕は、企画を「立てる」ことしかしていないのでは…「練ってるかい?」


p.74

「長い年月をかけて磨きあげられてきたもの」を型として暗記し、身にしみこませることによって、それが自分の歌を磨きあげていく作業の物差しとなるのである。ここでは、「磨きあげる」という表現が、古典となる歌が砥石の役割を果たすことによってより具体的にイメージされるようになっている。


p.88

ぐずっている子どもをおんぶしてしばらく呼吸を合わせていると、しばらくすると子どものほうから降りていく。自分から降りたあとはぐずりは消えている。ぐずったり、へたりこんだりしているときには、言葉よりも背負うほうが効く。この場合、2つのからだの間でやりとりされているのは、記号としてのボディ・ランゲージではなく、身体感覚である。背負われたときの安心感の素晴らしさを身にしみこませている人間は、人を背負うことに対してもおそらく肯定的である。背負われた経験のある者が、次の世代を背負うのである。


p.98

この「未熟な形」とは、見た目の悪さとともに、動きが理にかなっていないことを指摘している。習熟によって得られた合理的な動きは美しいという確信が、(幸田)露伴にはある。


p.98

ならい練られた動きには、「技法と道理の正しさ」がある。これが型・技のもつ良さである。
型は、「型にはまった」という形容であらわされるときは、現実に対して柔軟性がないという否定的意味合いである。一方で、一流のスポーツ選手のプレーに関して「自分の型をもっている」という表現がなされるときは、肯定的な意味合いをもつようになる。


p.100

人を自由にし、活性化させる型
型は通常は、自由を制限するものと考えられている。しかし、それがよい型であれば、人を自由にするものである。手紙の書き方の型をある程度知っていることによって、むしろ手紙は書きやすくなる。礼を型としてある程度把握していることによって、相手の心理を常にはかる必要は必ずしもなくなる。およそ妥当とされている人間関係のルールを守ることによって、人間関係上のストレスをむしろ減らすこともできる。
型のひとつの特徴は、型の意味をすべて理解する以前に反復することがもとめられる点にある。意義がわからないとしても、それを繰り返し反復練習し、身体に技として身につけることがもとめられる。型は、その型の効用を身をもって知っている人間が、それをまだ知らない人間に対して強制力をもって習わせるものである。したがって、型はそもそもが教育的概念である。これが、型とたんなる形との違いでもある。


p.104

型は、無意識と意識の境を往復するものである。通常は無意識に行ってしまっている行為に対して、型を導入することによって行為が意識的なものとなる。たとえば、それが作法である。


p.132

型や技という言葉は、日本的なるものをイメージさせやすい。しかし、「技化」という概念は、よりインターナショナルである。感覚の技化にとって重要なのは、繊細な感覚をもつということ以上に、意識で感覚を確認する作業である。数学の定理がいつでも利用可能なように、瞬間的に生まれた感覚やイメージがいつでも利用可能であるようにするために、意識による確認が不可欠なのである。


p.136

教育の領域では、ある程度の反復練習が重要であることは、およそ誰でも知っている。しかし、その「ある程度」を具体的な数字として意識し、その数字を確信をもって実践できる者は必ずしも多くはない。何十回という単位の反復であれば、それを強制できる教師は多いかもしれないが、それが何百回何千回という単位になるにしたがって数は当然減ってくる。反復する事柄の設定を誤れば、反復しても益が少なく、時には害にしかならないこともある。それだけに、ある種の強制力をもって膨大な数の反復を課するのには、教師のほうにためらいが生まれがちである。


西サモアでは、公用語はサモア語だが、子供から老人まで英語で簡単な日常会話ができる。
西サモアでの英語教育
・生徒は、教師の声について例文を何百回も反復する
・机や椅子があるにもかかわらず、全員立って反復している
・まず教師が大きな声でスピーディーに発音、その後25人ほどの生徒が反復する。反復の仕方は、全員で、グループで、個人で、する。
・日本の中学校における授業のような恥じらいは存在しない。


先生はすさまじいバイタリティで、テンポを落とさずに45分ほどの授業をこのやり方で駆け抜ける。子どもたちもしっかりとこのハイテンポに合わせている。子どもが大きな声で例文を暗誦する回数は、100回や200回どころではない。授業が完全なトレーニングの時間になっている。たって、時に移動しながら声を大きく出すというやり方が、すでに実践的である。坐って教科書を読むのとは行為の質が違う。