内田樹『ためらいの倫理学』

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)


ひさしぶりに内田先生の本を。ずーっと繰り返し言われていることは、「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」ということ。大事なことだなあ、と思います。僕はこういうことができているだろうか。ちょっと自分を振り返ってみる。
ちょっと専門的な部分もありましたが、おすすめ。

以下、メモ。

p.17

私たちは知性を軽量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。


p.56

「戦争」について私たちがなじんできた言説は、「火事が起きたとき」の言説に似ている。
消火活動の現場で許される言説は二種類しかない。一つは、いま燃えさかっている火を鎮火するための消火活動はどうあるべきか、周辺住民の非難はどのように誘導されるべきか、という徹底的にプラクティカルな言葉である。いま一つは、かけがえのないものを失い、心身に傷を負ったものへの悼みと慰めの言葉である。「この火事を防ぐためにはどのような防災の準備や訓練がなされるべきであったか」というような「条件法過去」的な分析や、「そもそも火事とは何なのか?」というような本質論的な問いは、火事の「現場」では提出されないし、されるべきでもない。火事場で消火活動の手を休めて、「火事の本質とは何か?」「われわれはこの火事を未然に防ぐために、何をすべきだったのだろうか?」と沈思黙考する消防士は有害無益な存在である。「現場」では悠長な問いを立てることが許されない。そこで許されるのは、「すでに起きている火事にどう対処するか」という限定的で具体的な目的にかなう言説だけである。
私たちの国における戦争をめぐる言説は、久しくこれに類似したものであった。つまり、戦後半世紀、戦争についての言説は、これをレアルポリティクの技術論の語法で論じるものと、「不戦への祈り」として希求法の語法で語るものの二種類しか存在しなかったのである。この二つの言説は水と油のように異質なものであるかに見えるが、じつは相補的な関係にある。レアルポリティクの信奉者も、反戦を祈るものも「人間が存在する限り必ず戦争は起こる」ことを(一方は無感動に、一方はパセティックに、という違いはあるが)前提としているからである。これは、国際紛争の土地で真に有意な活動をする二つの「国際機関」(たとえば「国連平和維持軍」と「国境なき医師団」)がある意味ではきわめて効率のよい「分業」を行なっているように見えるのと類比的である。「慰めと癒しのサブ・システム」を含むことによって、「傷つけ、破壊するシステム」はより効率よく(心おきなく)その仕事をする。


p.78

むろん「正史」が「見殺し」にしたものをすくい上げる機能は存在している。誰でも知っている通り、日本の場合、「外向きの正史」をクオリティ・ペーパーと大学知識人が代表し、「内向きの本音」をイエロー・ジャーナリズムと「失言」政治家が代弁するという「分業」が成立しているからだ。


p.111

さまざまな社会的不合理(性差別もその一つだ)を改め、世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、「自分は間違っているかも知れない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。


p.200

あまり知られていないことだが、私は「徹底的に知的な人間」である。(ここでいう「知的」というのは、intelligentという意味ではなく、knowledge-orientedという意味だ。)
「徹底的に知的な人間」というのは、自分が「ぜんぜん知的でない人間である」可能性について考究することの方が、「自分が非常に知的であること」を他人にショウ・オフすることよりも好きなタイプの人間のことである。
こういうタイプの人間はレアである。