内田樹・平川克美『東京ファイティングキッズ』

東京ファイティングキッズ

東京ファイティングキッズ


軽妙な語り口で深いことを「はっ!」と気づかせてくれる内田先生の本。いろいろと読み漁っているのですが、こちらは小学校時代からの友人との往復書簡。いくつかとてもおもしろい発言とかがされていて、そっかーと思いました。
ちょうど時勢がイラク戦争の開戦の頃だったこともあり、タイムリーにいろいろと考察もされています。テロリズムに関するところと、「ぼくは人間関係をリセットしません」というところがとてもおもしろかったです。

以下、メモ。

p.59
(内田さん)

私が学生さんたちに向かって求めているのは、「独創的であれ」ということと、その「独創性」は他者によって理解され承認されなければならないということです。
当たり前ですよね。
「お、独創的なアイディアじゃないか!と言ってくれる「他人」がいなければ、「独創性」というものは存立しえないんですから。


p.66
(内田さん)

「自分探し」ということばは、ぼくも平川くん同様あまり好きではありません。
「自分探しをするのは、探している自分は変わらないということが前提にあるからだ」というのは重要な指摘ですね。
梅棹忠夫の『文明の生態史観』を読んだときに、文明には2つの種類がある、ということを教えてもらいました。「変化するけれど、変化する仕方の変わらない文明」(例えば、強権的な独裁体制が滅びるときには、必ずカリスマ的な独裁者が登場して、新たな強権的独裁体制がとって代わる、というような文明)と、「変化するときに、変化する仕方そのものが変化する文明」です。
これはかなり「目ウロコ」的命題でした。
ぼくはこれを「凡人論・天才論」に適用して、「凡人とは、進歩するけれども、進歩する仕方がいつも同じ人」、「天才とは、進化する仕方そのものが進化する人」という定義を下したことがあります。言い方を換えれば、同じ問いに遭遇したときに、「つねに同じ仕方で答える人間」と、「そのつど答え方が変わる人間」の違いです。
「自己同一性」の神話がいつごろから、これほど人々のあいだに流布するようになったのか、記憶が定かではありませんが、「どんな局面でも、同じ自分でありたい」というのは、ぼくの定義によると「凡人でありたい」と言明していることに変わりません。
一億人の「自分探し」というのは、一億人の「凡庸」志向ということですが、そういうのってちょっと絵柄としてはグロテスクですよね。


p.124
(平川さん)

冷戦後、イデオロギーが形作っていた世界の対称性というものが崩壊しました。ある意味で米国とソビエトというふたつの国が共同で作り上げた「冷戦」というプロジェクトとは、対照的なふたつの経済ブロックを政治的にも、経済的にも競争しながらも「バランス」させるという、知的なプロジェクトだったわけです。



人も国も、自らとは異なるもの、理解できない「外部」に対峙して、対称的にバランスさせるという「知恵」の後退、あるいはこの知恵を使うために必要な「忍耐」ということが覇権国のなかで起こっているように思えてなりません。


p.218
(内田さん)

どこの国も、どこの社会も、それぞれの仕方で病んでいたり、老いていたり、幼児的であったりするわけで、そういうことはそうなるに至った文脈があり、歴史的前段があるわけですから、いますぐどうこうしろと言っても無理なんです。
だから、それを受け容れた上で、それぞれに身の振り方を考えればよいと思うのです。病んだ国は病んでいることを自覚して、おとなしくベッドで養生していればよいし、死にかかった国はどういう遺産を次世代に残せるのか考えればいいし、幼い国はどうやったらもう少し大人になれるか考えればいいわけで、そういうことは一律にはゆきません。


p.243
(平川さん)

「奴」が敵になったのは、俺と奴との関係の結果であって原因ではないのです。人と人、国と国の関係を「敵対的な関係」という結論に導くような思考法こそが本来問われるべき問題であるわけです。
イラクはアメリカにとって、生来の敵、天敵ではありませんでした。時に応じて、敵であったり、敵の敵(イランイラク戦争)であったり、無関係な辺境の貧国であったりしたわけです。つまりは、自国の国益との関係が変われば敵にも味方にもなるご都合主義こそが、リアルポリティクスの本質だろうと思います。


p.244
(平川さん)

断言してもいいが、この世の中、世界中のどこにも、生まれながらのテロリストなんてものはどこにも存在しない。ナチュラルボーンテロリストとは、まさに同盟軍の作った物語です。
世界の圧倒的な経済的、軍事的な非対称のもとでは、もはや正規軍VS正規軍という戦争は起こりえない状況になっています。
テロVS国際社会という構図が先にあるのではなく、現在の国際社会の構造がゲリラとかテロという形式以外の闘争の選択肢を奪いつつあると言うべきなのではないでしょうか。
お前はテロリズムを肯定するのかといわれるかもしれません。ぼくは、国際政治の文脈ではテロを倫理的に肯定したり、否定したりすることにはほとんど意味がないといいたいのです。ただ、それは必然だよといえばよいのだろうと思います。


p.249
(内田さん)

フーコーがその系譜学的考究のなかで行なってきたのは、「そんなの常識じゃん」という無反省な言明に向かって、「ほう、それはいつから、どこから、誰から、『常識』になったのか、一つ教えちゃくれませんか?」と執拗に問いかけることでした。