内田樹『街場の現代思想』

街場の現代思想

街場の現代思想


いやー、これは相当におもしろかった。特に、「リセットスイッチ」のところのくだり。まさに、僕の問題はこれだったんじゃなかろうか、と目一杯反省しました(笑) まさに、足りていなかったのは「優しさ」でも「思いやり」でもなく、何より決定的だったのはこの「リセットスイッチ」を常に持っているからに他ならないのだなあ、と。いや、わかったからそれが直るわけじゃないんだけどさ。
あと、大学についての記述についても、「これだ!」と思うところがあり。こういう教育機関を作りたいなあ、と思った次第です。勉強になりました。

以下、メモ。

p.14

文化資本」が作る境界線と、「年収」が作る境界線とでは、「壁」の高さも厚さも桁が違う。年収は本人の努力でいくらでも変わりうるけれど、子どもの頃から浴びてきた文化資本の差は、20歳すぎてからは埋めることが絶望的に困難だからである。しかし、そのような「成人して以後はキャッチアップ不能の指標に基づく階層差」がいま生まれつつある。


p.39

フローベールが『ボヴァーリ夫人』で活写したように、近代プチブルの「醜悪さ」は、彼らに十分な資産がないことでも、十分な教養がないことでもない。そうではなくて、その「不十分さ」を過剰に意識するあまり、それを恥じ、それを隠蔽しようとし、自分よりもさらに醜悪なプチブルを探し出して、自分の優位を誇り、それを嘲笑することに熱中するさまにある。
かつてニーチェはこのような「劣等者に対する嫌悪感」のことを「距離のパトス」と呼んだ。


p.71

人生の達成目標を高く掲げ、そこに至らない自分を「許さない」という生き方は(ごく少数の例外的にタフな人間を除いては)、人をあまり幸福にはしてくれない。
あまり言う人がいないから言っておくが「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。
幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。


p.81

あらゆる存在はその固有名において呪縛される。だから、王朝時代、男女は一夜をともにしたあとにはじめてその本名を明かした。それはうかつな人間には、決して「素」の自分を見せないという生存戦略を裏返した「あなたに私を呪縛し、傷つけ、損なう権利を委ねる」という、ある意味では壮絶な決断のしるしとして贈られたのである。


p.88

人間は「もの」ではなく、まず「お金」を作り出した。
何かをたくさん作りすぎて、それが余ったから、足りないものと交換にだしたのではない(社会科の教科書にはそう書いてあったかもしれないけれど、それは嘘だ)。お金ができたせいで、何かをたくさん作って、余らせるということができるようになったのだ。


p.164
「運転が未熟なので、ぶつけて傷つけるかもしれないから、中古に乗る」
→この発送をしている限り、ドライバーは無意識に車を「ぶつけよう」と思うようになる。


あなたが「結婚してみて、ダメだったら離婚して、もう一度やり直せばいい」という前提で結婚に立ち向かう場合と、「一度結婚した以上、この人と生涯添い遂げるほかない」という不退転の決意をもって結婚に望む場合とでは、日々の生活における配偶者に対するあなたの言動には間違いなく有意な差が出る。手元に「リセットボタン」を握りしめて結婚生活をしている人間は、まさに「リセット可能」であるがゆえに、その可能性を試してみたいという無意識の欲望を自制することができない。それはその人が特別に自制心に欠けているとか、愛情に乏しいとかということではない。ボタンがあれば押したくなり、ドアノブがあれば回したくなる。人間というのはそういうものなのである。


p.175

私はここまで二つのことを述べてきた。
幸福であれ不幸であれ、未来についてクリアカットな想像を抱くものはそのような未来を招き寄せずにはおかない。これが第一の命題。
男女関係においては、相手が示す「理解不能」のふるまいについて私たちは「考え得る限り最悪の解釈」を採用する傾向がある。これが第二の命題。
この二つを総合すると、私たちの誰にとっても、愛の終わりは構造的に不可避であるという結論が導かれる。
だって、そうでしょ?相手のどんなふるまいを見ても私たちは「あ、もう終わりだ」と思い込むことから逃れられないし、思い込んだことを確実に実現するように無意識に心身が動いてしまうことからも逃れられないのだから。


p.196

デジタル・コミュニケーション(定量可能、分割可能な知識単位を交換するシステムをとりあえず、そう呼称する)には致命的な難点があるからである。
それは「自分がしっているもの」しか「注文」できない、ということである。


p.198

(大学の)キャンパスという無意味に広い空間が必要なのは、そこに行くと「自分が知りたいことが知れる」からではない。そこに行くと「自分がその存在を知らないことさえ知らなかったもの」に偶然でくわす可能性があるからである。「大学の中をふらふらする」という作業がどうしても必要なのはそのためである。そして、キャンパスにゆらゆらと遊弋しているうちに、「なんだかまるで分からないけれど、凄そうなもの」や「言っていることは整合的なんだけれど、うさんくさいもの」を直感的に識別する前-知性的な能力がしだいに身になじんでくる。そのことが、ある意味で大学教育の最大の目標なのである。