村上龍『だまされないために、わたしは経済を学んだ』


評価は分かれるところかな、と思いますが、けっこう僕は「そうそう」と思うところが多いのですよね。自信を持って、楽しく人生を生きている大人の姿を見て、子どもが育っていくという方がいいと思うっす。僕らがカッコイイ姿を、人生を楽しんでいる姿を見せなきゃ!

以下、メモ。

p.67

「きっかけ」というのは、常にそのへんに転がっていて、それに出会いさえすれば、誰でも何かを成就できる、というニュアンスを含んでいます。自分が成功できないのはきっかけがないだけで、友達がいないのもきっかけがないからで、他の成功者は単にきっかけがあったからなのだ、というエクスキューズが許されるわけです。そこには科学的な努力の必要性も、考え抜くという行為も、徹底的な検証という前提もありません。
きっかけなどないと言った後に、「人間のすべての行動は広義の経済活動であり、重要なのは『きっかけ』などではなく、有益な経済活動の機会に遭遇しようという積極性と、機会を捉えそれを活かそうという決意と、その意志と行動を継続していくための努力だ」という風に答えると、インタビューの場は完全に白けてしまいますが、きっかけという言葉が機能している間は、日本がリスクテイク社会になることはないでしょう。


p.110

「頑張らなくてもいいから契約だけは取ってこい」
「頑張らなくてもいいからレポートはもっと正確に書け」
「頑張らなくてもいいから絶対にこの企画を通せ」
「頑張らなくてもいいから絶対にこのイベントだけは成功させてくれ」
そういう言い方がわたしは好きです。要は、「頑張って」という言葉を使うことで目的が曖昧になってしまうリスクは決して小さくない、ということではないでしょうか。


p.137

最近、「昔は良かった」という老人たちの発言を耳にするとき、「そうではない、今のほうがいい時代だ」と反論する義務がわたしの世代にあるのではないかと考えるようになりました。
(略)
幼い頃、祖父母を含めた家族と親戚が集まる宴会や法事、祭りなどが楽しみだったことを憶えています。それなりのご馳走が食べられたということもありますが、それよりも、幼いわたしは、楽しそうな大人たちを見ることがうれしかったのではないかと思います。幼い子どもは、幸福そうで自信に充ちた親を見ると安心し、逆に自信を失い悲観的になっている親に対しては非常な不安感を持ちます。


p.205

わたしは、子どもは集団における競争を体験する必要があると思っていました。社会は大小さまざまな集団で構成されていて、多かれ少なかれ競争があるはずだと思っているからです。


p.227

社会的ルールを守ることを教えるのは簡単だとわたしは思います。つまり、社会的ルールを守ったほうがコスト&ベネフィットの面から合理的なのだとアナウンスすればそれで済むと思うわけです。
問題は、「アナウンスできていない」ということに尽きるのではないでしょうか。まず、正確なアナウンスの必要性を、政府もその諮問機関もメディアも認識していません。また、アナウンスの文脈、経済合理性に基づいた文脈の整備が充分ではありません。個人の概念が未発達な中では、自由という概念も、責任という概念も、伝わりにくいと思います。
もっとも困難な問題は、社会的ルールを守るほうが有利だという事実を伝える必要がある層が、そういった問題にまったく興味を持っていないことです。
「親や学校・地域社会は充分に子どもをケアしなくてはいけない」というようなテレビの教育番組による啓蒙をもっとも必要としている層は、裏番組のバラエティを見ているわけです。視聴率を見ればどちらがマジョリティかすぐにわかります。