宇波彰『旅に出て世界を考える』

旅に出て世界を考える

旅に出て世界を考える


もう、紀行文が大好き、現代思想に興味がある僕的には、このタイトルは相当に好き。内容的には、いろいろと発展して読んでみたい本とか概念が紹介されていたので、ここから進めていこうかな、という感じ。ネグリ、ハート『帝国』はぜひ、読んでみたいな。

以下、メモ。

p.14

映像の意味を言語で固定することを、映像記号論では「投錨(アンクラージュ)」と呼んでいる。ロラン・バルトが広めた概念である。写真のような映像表現は、それ自体では意味が浮遊することが多い。説明や題名というかたちでの言語を与えることによって、その映像の意味が確定されるが、これを「投錨」と呼ぶ;


p.15

写真に勝手に説明を付けてその意味を変えてしまう手法は、政治的なプロパガンダではしばしば用いられる方法である。


p.63

ガタリもフーコーも、権力のありかたについて、それが上から下へと垂直線状な構造をもつものとは考えていなかった。彼らによると、権力は横につながりながら、作られていくものである。たとえば、革命も、ナチスのような権力の形成も、一気に上から与えられてなされるものではない。家庭や学校や工場などいろいろな場所で、小さなグループが作られ、それが横につながることによって、大きな力になるというのが、ガタリの「ミクロポリティックス」という考え方であった。


p.118
中野利子『外交官 E.H.ノーマン』第5章「マッカーシズムの嵐」

1947年にトルーマンは演説する。世界は<二つの生活様式のうち、どちらか一方を選択しなければならない。>一方は<自由な制度という特徴を持ち、…多数者の意志>にもとづき、他方は<少数者の意志…恐怖と弾圧…個人の自由の抑圧>に基礎を置く。…この考えにもとづく外交政策の展開に国民的合意を得るために、<赤狩り>という手段が用いられた。この二者択一の思想は<中立主義>の存在を許さなかった。


「トルーマン」に「ブッシュ」を、「赤狩り」に「空爆」を置き換えると、そのまま現代のアメリカに当てはまるのではないか?


p.152

ネグリ、ハートは次のように書いている。「他性(注:自らとは異なるもののこと)とは所与のものではなく、生産されたものである。」自分とは異なっているだけではなく、多くのばあい自分よりも劣っているものは、あらかじめ存在していたのではなく、こちら側が作ったもの、「表象」されたものである。