中沢新一『ポケットの中の野生 ポケモンと子ども』

ポケットの中の野生―ポケモンと子ども (新潮文庫)

ポケットの中の野生―ポケモンと子ども (新潮文庫)


子ども相手の仕事をしていることもあって、子ども達がどれだけポケモンのことが好きかは、身をもって知ってる。ただのゲームっていうだけでなくて、それらを集めて、データを覚えて、さらに友達とケーブルを通じて交換して、っていうのが彼らにとって本当に楽しそうなの。
「ゲームばっかりしてないで勉強しなさい!」っていうのは定番な叱り方だけど、ポケモンやってる人たちは無意識に、「属性」とか「進化の樹形図」みたいな感じのものをしっかりわかっていく感じがします。データベースの授業で、属性の話とかしても、「属性でしょ?はいはい、わかる」とか「ああ、○○系ね」とか、あっさり理解してしまったりします。

そういうのを、作者達が狙ってやっているのだ、というのがおもしろかった本。以下、メモ。

p.18

「時代や環境によっては変わらない、子どもたちにひそむ衝動」というのが、レヴィ=ストロースなどの言う「野生の思考」というものにほかならないのである。野生の思考はいわゆる未開社会の独占物でない。現代の世界のまっただなかでも、それはまだ生き残っている。それどころか、ときにはまわりの「まともな大人たち」のひんしゅくを買うほどの、大変な繁茂をとげていることさえある。テレビゲームがそのような世界のひとつなのだ。そして、『ポケットモンスター』というゲームは、そのなかでもとりわけ、子どもたちの中に眠っている無意識下の衝動に、すなおで豊かな表現をあたえるのに成功した。そのとき、子どもの衝動は、野生の思考に姿を変えるのだ。


p.61

物語の語りがはじまる直前には、すでに世界から幸福や秩序や完全さは失われている。時はすでに失われているのだ。主人公であるプレイヤーのとりかかろうとしている探求の旅は、このすでにして失われた時を求めての旅なのだ。RPGは昔から、ということは人類がもう2万年も3万年も前から語り継いできた、神話や民話の仕組みをそのまま利用しているのである。
神話でも民話でも、物語を先へ先へと推進させていく力を、この欠如の感覚から得てきた。


p.102

かつての虫取り少年たちによってデザインされたこのゲーム(ポケモン)では、種の概念が決定的な重要性をあたえられているのである。種はまず、さまざまな形態のモンスターとなってあらわれる、このゲーム全体の潜在空間とも言うべき、自由で流動的な、前=言語的欲動がはらんでる多様性を、とても魅力的なやり方で表現しようとしている。


p.103
ポケモンの世界
・自由で流動的な力の表現と分化
・明確な分類原理=自然界の多様性がモデル


ゲームを遊ぶ子どもたちは、戦いや捕獲の努力をとおしてそれぞれのモンスターたちの生態や特性を認識しながら、これはこれでひとつの「自然」と言えるものを体験しているのだ、と言えるだろう。


p.111

この小さな仮想宇宙(ポケモン世界)の中に150種もの種を用意しておくことで、このゲームの作者たちは、流動的な生命の流れの中に非連続な切れ目を入れようとしている。背後に連続して流れる何かの潜在的な力を直観している子どもたちは、そこに切れ目が入れられることで、カオスを秩序につくりかえる知的な喜びを味わうことになる。種の多様性は、生命の世界のはらむ多様性を、直感的なイメージであらわすことができる。こういう分類は、図鑑などの大好きな子どもの中に、「野生の思考」の喜びをかきたててくれる。『ポケモン』は、分類ということが大好きな、「子どもの科学」の特徴をフルに活用してみせるのだ。