稲葉振一郎『経済学という教養』

経済学という教養

経済学という教養


途中、チンプンカンプンになったところもあったのですが、刺激的でおもしろい本でした。経済学者が書いたものではなく、ちょっと違った角度から書かれているのもすごくおもしろい理由だと思います。

特にラストの章とかは超いいです。政治や経済がどのように行われているのかを知識と関心を持って、意識を高く見ている観客になる、ということが大事なのですね。立ち読みでいいです、最後の章を読んでほしい。

p.4

ぼくが期待している読者はたとえば例のソーカル事件、そして「サイエンス・ウォーズ」でかなり不安になった人、「ポストモダン知識人の書き物のあらかたはファッショナブル・ナンセンスだ」と告発したアラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン『知の欺瞞』(岩波書店)を読んで「ポストモダン本がわからないのは、どうやらこっちの頭が悪いからというだけじゃなかったらしい」と少しホッとすると同時に、「それじゃ人文系の知にはどんな意味があるってんだ?」と悩んだ人たちだ。

p.5

ソーカル事件というのは、物理学者アラン・ソーカルが、ポストモダンの人文社会系の学者たちが、自分たちの著作で、自然科学や数学の概念をたとえ比喩としてもあまりに不正確でデタラメな仕方で濫用しているのを腹に据えかねて、あるとき「量子力学の理論も社会的なコンテクストによって決定されている」というデタラメな主張を、ポストモダン的な言葉遣いでもっともらしく展開した論文もどきを自分の手ででっち上げて、ポストモダン系の学術雑誌に投稿したら、審査を通って採用されてしまった、という事件である。ソーカルはもちろんその直後に舞台裏を暴露し、デタラメを見抜けなかった雑誌編集陣とそれを取り巻くポストモダン業界を厳しく批判し、だまし討ちを食らった形のポストモダン知識人たちは激しく反発した。これが世に言う「サイエンス・ウォーズ」である。

※黒木玄『「知」の欺瞞』関連情報
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/


p.48
比較優位」が重要だ


互いに孤立して暮らしているのではなく、情報やモノ、サービスをやりとりできる社会においては、人々は自分でできることは何でもやるのではなく、それぞれ得意なこと(この「得意」というのは「これについては自分は誰にも負けない」という「絶対優位」である必要はまったくなく、「自分は何をやっても人並み以下だけどこれについてはまだましかな」という「比較優位」で十分であることに注意!)に特化した上で、あとは互いに補い合うほうが全員にとって有益である、ということになる。

%%コメント%%
学生の頃に、貿易理論を持ち出して日米貿易摩擦についてのプレゼンをしたことがありました。「比較優位」の「比較」の意味がわかりにくかったなあ、と思って。今、子どもたちに教える立場になって、こういう言い換えの技術にすごく興味があります。自分が持っていなくてはいけないスキルだと思っています。

p.168

市場での競争に勝ってライバルを退けるということは、完全雇用状況においては、ライバルが動員していた資源(資金にせよ、マンパワーにせよ)が他の部門でより生産的に活用されるように導くことを意味するが、ケインズ的な不況下では多くの場合、そうした資源を単に遊休させ、腐らせることを意味する。「ここでは失敗したから、よそに行こう」というその「よそ」が、他のビジネスチャンスがない、という状況がまさに不況なのだ。

p.169

そもそも不平等がしばしば不正、悪と見なされがちである理由はおそらく、その背後に人が搾取や略奪、詐取の存在を推定してしまうからだろう。しかしもちろんそういう横奪なし、他人の権利の直接的な侵害なしでも不平等は発生してしまう。そのような不平等までを不正、悪と呼びうるかどうか、はかなり疑わしい。スミス=ワルラス的な市場社会のヴィジョンはまさしく、そのような単なる不平等自体は指弾しない、という前提の上に成り立っている。
(略)
おそらくこの対立、すなわち「弱肉強食」か「共存共栄」か、という対立は、伝統的な「平等」をめぐる対立(「自由・対・平等」あるいは「機会の平等・対・結果の平等」等)よりもさらに根元的なものではないか、平等主義者たちが言おうとして言い切れなかったことはまさにこれなのではないか、とぼくは考えている。

p.248
「公共財」
・誰にでも自由にアクセスして使える(排除不可能性)
・使うにあたって待たされることはない
・使いたい人々の間で取り合いは鳴く、一緒に使える(非競合)

こうした「純粋公共財」など現実にはほとんどありえない。


%%コメント%%
ここから下はあとがきチックな感じだが、すごいいい文章だと思う。

p.288

公共政策の直接的な主体は、主として間接民主政治における「代表」「代理人」、つまりは政治家や官僚ということになるわけだが、彼らに任せてオッケー、ということになるかと言うと、もちろんそんなわけでは決してない。現場での直接的な担い手でもなく、かといって単なる観客でもないような、そんな立場に、普通の庶民も立たなければならない。
つまりは「目の肥えた観客」にならなきゃいけない。具体的に細かく現場で何をどうこうすればいいかの「専門知識」はなくとも、大筋で何が大事かのツボを心得ていて、誰に任せればいいかについての判断はそこそこできる、そんな目の肥えたうるさがたに。「専門知識」としての経済学はみなさんには不要だが、「教養」としての経済学は必要だろう。

p.289-290

しかし、どうすれば(経済学に限らず)そういう「教養」が身につくのだろうか?それはただ単に勉強して知識を詰め込めばいいってことではないだろう。しつこいようだが、人間の能力には限りがある。すべてを知ることが「教養」ではない。そうではなく、それ以前の「生活態度」のレベルで重要なことがある。それは「専門知識」のありがたみを骨身にしみて知っておくこと、つまり自分の現場で自分なりの「専門知識」をきちんと身に付けておくことによって、他人の「専門知識」に対する尊敬の念を持てるようになること、であろう。
もちろんこの場合、自分のことで手一杯になって、他に目をやる余裕がなくなってしまっては元も子もない。自分が無知であることを実感できる程度には勉強しておくこと。自分の畑がごく狭いところであること、世界がとても広いことを実感できるためには、周りを見渡すことと同時に、自分のその狭い畑が、それでもあんがい耕しがいはあると知る(だからよその畑も結構大変かつ面白いかもしれないと想像する)ことが必要だ。
言い方を変えると「知識の経済学」というものが、単に比喩としてではなく大真面目に考えられる。そしてぼくが考えるそこでの基本原理は、やはり「分業」、つまり知的分業だ(この辺はじつは現代哲学、認識論の非常にホットなテーマである。森際康友編『知識という環境』名古屋大学出版会、戸田山和久『知識の哲学』産業図書、が参考になる)。ではその観点からすれば「教養」とは何か?それは第一に「知的分業に参加できるためにみんなが最低知っておくべきこと」であるだろうが、それ以上に重要な第二の要素は「知的分業を可能とする社会的な枠組みと、それへの信頼感の共有」だろう。つまりそれって「公共性」と別のことではないんだ。

p.290

もちろん「大衆への啓蒙」が不要になるわけではないが、それを言うなら「エリートの啓蒙」だって必要だ。つまり「啓蒙」とは「大衆をエリートのレベルまで近づけること」ではない。大衆社会論の先駆者であるオルテガの言うように、大衆社会では普通の意味での「エリート」、知識人やテクノクラートこそが自分の畑の外はわからない「典型的な大衆人」なのだ(オルテガ『大衆の反逆』ちくま学芸文庫)。啓蒙とは「エリート」にも「大衆」にもいる大衆人を、自分の畑から広い世界へと引きずり出すことではなく、それぞれの畑を閉じられたタコツボにしないよう保つことだ。