ジェーン・ハーリー『滅びゆく思考力 子どもたちの脳が変わる』

滅びゆく思考力―子どもたちの脳が変わる

滅びゆく思考力―子どもたちの脳が変わる


「Endangered Minds Why our chidren don't think」が原題。こちらの方がセンセーショナルだよねー。
こうして抜き出してまとめてみると、現在自分が関わっているプロジェクトが非常に多くの示唆を受けそうな内容だ。幼児向けのテレビ番組、幼児向けのブロードバンドコンテンツ、そして学校教育と、民間教育。そのままじゃないか。
やっぱり、脳の仕組みや認知科学の領域にまで、自分の守備範囲を広げていくことが必要だよなー。そして、教育工学との組み合わせで自分なりのセルフ・ブランディングをしていこう。まずは先行研究を洗っていくことだよな、がんばろうっと。

以下、メモ。

p.40
スーザン・ルディントン・ホー(幼児発達の専門家)
・劣悪な環境が脳の初期発達に及ぼす影響を心配
・幼児の対人接触の質の悪さは長年にわたる影響を残す


われわれは生後一年間の脳の発達にとって人との相互的な関わりが重要なことをより詳しく知り始めているのに、現実には子どもの脳への働きかけが少なくなってきているのです。母親は自分の幼な子を世話してくれる他人を求め、子どもから遠ざかろうとしています。そのため赤ん坊は自分に要求があっても我慢する傾向を強めています。

p.48

脳のある領域が髄鞘化されるまでは、子どもたちは課題をうまくこなすことができない。このためまだその前提となる脳の成熟がなされていない段階で子どもたちに学業の技能を教えることは、混乱した形の学習を生じさせることになる。読み書き、綴り、数といったどの学習においても、その技能をうまく学習することにはいくつかの神経系が関わっている。われわれは子どもたちにそれぞれの課題に最も適した形で学習の部分部分を組み合わせたいと望んでいる。しかし、まだ最適の技能が活用できない場合には、強制的な学習は不適切な機能を作り、時限の低い技能が形成されることになる。

p.56
子どもに必要なもの
=刺激と知的な挑戦
→子どもが受身で反応するのではなく、能動的に関わる学習でなくてはならない
 ・解答を見つけ出そうと奮起させる
 ・質問を熟考させ、反応を生み出す
 ・生徒の関心と想像力を駆り立てる

p.63
言語音の聞き分け回路は臨界期の刺激で作られる(UCLA医学部・ジュニア・ブックバルド)
・音声の発声器官は、外国語の完全なアクセントでしゃべれないこととは関係ない。関係しているのは脳。
・われわれは語音を正確に聞き取り、そのまま真似しようと努力する。しかし、周りで生じない語音パターンを捉える能力は子どものうちに失われてしまう。

p.64
ニコ・スパイネリの興味ある観察

二ヶ国語使用状態で脳が成長すれば、脳はその能力を無駄に使うことになると思います。私の考えるよい方法は、15語程度のドイツ語、フランス語、日本語、スペイン語を完璧に発音することを子どもに習得させることです。このうちの一つ以上の言語を無理なアクセントをつけずより容易に習得するでしょう。なぜなら、すでに脳には下塗りがされているからです。


ただし、
・劣悪な外国語の刺激は子どもの母語の習得をも混乱させてしまう
・基本的な感覚技能には発達において感応性の高い時期がある

p.67-68
ジェーン・バーンスタイン

テレビやコンピュータが悪いのではないのです。そうではなくて、機械と関わっているとき子どもが能動的か受動的かが問題なのです。



セサミストリート』の世代は、ことばがコミュニケーションであり、人の間で行きつ戻りつして交流するものであることを理解しない大きな危険性を持っています。彼らは言語を思考や問題解決に使いません。話しかけられたり、物語を読んでもらえる子どもは実に恵まれています。この子たちはどのように聞き耳を傾けるかを習得するのと同時に聞くこと自体を楽しみます。この基本となる能力を子どもが授業からも得るとしたら、それはきわめて大きなことです。

p.72

言語は思考の手段であるばかりでなく、それは同時に思考の源泉でもある。子どもが言語を習得するということは、同時に近くと記憶を再統合できる力を得たことであり、外的世界のものの複雑な捉え方を習得したということであり、しかも見たものから結論を引き出す判断力、思考の潜在能力を得たことである。
アレキサンダー・ルリア

p.120
基本的な語彙のレベルを超えて文法的に正しく話し、理解する
→環境の影響を大きく受ける


この関わりは、テレビのような間接的な刺激情報では欠けている。子ども向けテレビ番組のような大人のことばよりも簡単な言語であっても、間接的な言語情報は言語獲得にとっては貧弱な条件にしかならない

p.144

セサミストリート』は就学前の子どものテレビを見る習慣を形成しているが、大部分の子どもたちが2歳までに1日のうち何時間かはいくつかのテレビ番組を見始めている。3歳〜5歳まで、それは認知と言語の発達における脳の臨界期であるが、平均的な子どもは1週間に28時間テレビを見ていると考えられている。多くの子どもたちにとってテレビの前での時間が増えることは、逆に活動的に遊ぶ時間を減らしていることになる。テレビを見る平均時間は、小学生が1週間で25時間、高校生では28時間にも及ぶ。これらの時間は宿題に費やす時間の約6倍にあたる。ビデオテープをみて過ごす時間については調査がないので分からない。
多くの家庭において、幼児も含めて子どもが直面していることは、テレビが言語や聞く力、声をあげて読む力を育てる家族の会話にとってかわり、しかも課題への取り組み方、将来の計画についての話し合い、また自分自身の感情のコントロールの方法について大人が子どもに見本を示すゲームやその他の活動を排除している。家庭の時間を取り戻したいと願っている多くの親たちは、子どもたちがテレビを見ることに「取り付かれている」ことを見出すのである、とマリー・ウィンは言っている。「子どもたちは家族全員が楽しめる他の活動を拒否している」。それはテレビを見ることがより簡単なためである。低い社会経済階層の子どもたちはほとんどの時間をテレビを見て過ごしている。

p.318-319
メタ認知-自分自身の心を知る技術
慎重な知的処理のために子どもたちの内言を取り入れる。
「声に出してしゃべり」「声に出してささやき」「頭の中でささやく」ことを教える。


問題に取り組んだとき、子どもたちは次のような5つのステップに従うよう教えられる。
(1)ちょっと待って、考えろ。自分の課題は何か(言葉で問題を明確化する)
(2)自分の対策は何か(解決のための考えられうるステップをしゃべる)
(3)どのように始めるか(第一ステップを分析する)
(4)自分はどのようにやっているのか(課題を解き続ける)
(5)ちょっと待って、振り返ろう。どんなふうにやったのか(結果を見直す)

これらのステップの練習は、注意力に問題のある子どもが自分の行動をより効果的に操作することに驚くほど効果がある。

p.332
「人間とこの機械の脳(注:コンピュータ)の交流がおよぼす身体的影響について推測することは、あまり研究が進んでいないので確かなことはわからないが、興味あることである。今現在、子どもがAIと出会うのは、通常、次の5種類の形である。

(1)ドリルと練習のプログラム(例:九九を学ぶゲーム、綴りの練習、白地図への州都の記入)
(2)プログラミング(例:四角を描かせたり、ガソリンの燃費を計算させるために、機械に一連の命令を入力すること。これらはコンピュータ特有の言語と特有の一段階ずつの論理で機械に提示されなければならない)

(3)データベースの利用(例:1973年以後に出版されたインコに関するすべての記事のリストにアクセスし、重要な記事についてその要約を得る。など)

(4)シミュレーション(例:君は「オレゴン街道」へ出発しようとしている開拓者である。君は旅費を与えられ、それを使って供給品の「メニュー」の中から携行するものを選ばなければならない。旅が進むにつれ、君はいろいろな困難に遭遇する。オレゴン街道の道筋に沿ってそれを判断する。(略)この道程において、歴史や意思決定の技能を学ぶことになる。テレビゲームもまたシミュレーションとみなしうる)

(5)ワープロ作業(例:記憶装置つきの進歩した形のタイプライターとしてのコンピュータの操作)

p.366

ある著名な演劇専攻の教師は、テレビ世代の子どもたちは「イメージの多様性をうまく操り、台詞の順序に詰まることが少ない」と書いている。しかも、「カメラは空想家であり」、それは子どもの想像性を高めると指摘している。しかし、他の教師たちはまったく逆のことを言っている。「子どもたちは視覚化する能力を失っている。彼らの絵はすべて誰かが創ってくれたものである。その結果として、彼らの思考は抑えられている。
映像刺激はおそらく非言語的推論を活性化させる主要なルートではないであろう。身体の動き、すなわち触ったり、感じたり、操作したりすること、そして物理的世界に対する感覚意識を作り上げる能力がその主要な基盤である。深刻な問題がいま存在する。子どもたちは、砂や水やブロックや母親の計量スプーンで遊んだり、木登りや石ころのより分け、貝殻や木の葉をいじるなどの遊びをしない。自発的な身体遊びをせず世界を構成する種々のものを試す時間を持たない子どもたちは、非言語的推論を試す場合にも短絡的な思考に陥るであろう。めったに一人にならない子どもが、「心の目」で探索する機会を持たないのも当然である。狂おしいライフスタイルは想像力も内省力ももたらさない。まだよちよち歩きの子どもたちのエアロビクス教室が人生の謎を探らせるようなことはない。不適切な言語使用は深刻な問題であるが、的外れの洞察力はより大きな問題となるだろう。