内田樹『子どもは判ってくれない』

子どもは判ってくれない

子どもは判ってくれない


MAGICLOVEさんのサイトで何度か紹介されているのを見て、読んでみた一冊。

一箇所、アメリカの対日政策と日本の対韓国政策についての言及部分があるんだけど、そこで書かれていたことが自分が感じていたこととそっくりだったのでおかしかった。自分が言いたいことが、こんなにすっかりと言葉にされているのはびっくり。こういうふうに言えばいいのか・・・。これがまさに、今の仕事をしている理由だからなあ。2003年の終わりになって、思いっきり初志を思い出させてくれた。

以下、メモ。

p.12

全面的に否定されることは少しも正しさを損なわない(「世界に平和を」という主張を全面的に否定する立場は「世界に戦火を」だけであり、そのような悪魔的主張を支持する人間は私たちのまわりにはほとんどいない)。しかし、具体的提案(たとえば、「アメリカにすべての軍事力を集中させることによって世界に平和を」というような提案)にはただちに異論や対案が出される。
すると、その主張の「正しさ」は具体的であった分だけ損なわれることになる。
だから、正しいことだけを言いたがる人は、必然的に「具体的なこと」を言わないようになる。そして、いったい誰が、どういう資格で、誰に向かっていっているのかも不分明になる。
今、私たちの社会はそのような、「具体性を欠き、誰に向かっていっているのかよく分からない」けれど、文句のつけようのないほど「正しい意見」に充満している。新聞の社説からニュース解説から大臣や官僚の国会答弁からテレビ人生相談まで、そんなのばかりだ。

p.45
ヴァーチャル爺のすすめ

明治にあって、21世紀になくなったもの、それは「早く爺になりたい」という願いである。若者が「早く爺になりたい」と願うのは、日本古来の知的伝統のひとつだったのである。


p.97
村上龍『アウェーで戦うために』

20歳を過ぎて、好きな琴が見つからないと学校にも行かず、これといって訓練も受けていない人間に、どういうチャンスが訪れるというのだろうか。そういう人が25歳になって、たとえば自分の好きなことが医学だったと分かったとき、その時点で勉強を始めても極めて大きいハンディを背負うことになる。
残念ながらほとんどのフリーターには未来はない、というアナウンスがないのはどうしてなのだろうか。



言葉を言い添えておくと、経験的に言って、職業選択というのは「好きなことをやる」のではなく、「できないこと」「やりたくないこと」を消去していったはてに「残ったことをやる」ものだと私は考えている。
つまり、はたから見て「好きなことをやっている」ように見える人間は、「好きなこと」がはっきりしている人間ではなく、「嫌いなこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。

p.196

かつて周恩来は中国人が憎むべきなのは「日本軍国主義」というイデオロギーであり、「日本人民」ではない、という「イデオロギー」と「生活者」のあいだの水準差について語り、日中両国の人々のあいだの友好の基礎を築くことに成功した。私はこの政治的洞見に敬意を抱くものである。
しかし、これは中国人が口にすることは許されるが、日本人が口にすることは許されないし、中国人に向かって「そう言ってください」とこちらから要求することのできない言葉である。

p.197
国民国家は「擬制」である

私たちはパスポートを使っている
→日本政府が提供するサービスの恩恵を蒙っている
擬制としての国民国家を「利用」していること

公式行事では「君が代」を歌い、「日の丸」に敬礼する
国民国家を利用していることへの「支払い」?


トータルでは、「私が国家に奉仕した分より、かなり多めに私の方が国家から恩恵を受けている」ことについては確信がある。

p.231
激しく同意。まったく同じことを、初めて海外に行ったときに思ったよ。言葉にばしっとされていてびっくりした。


最終的に2つの国のあいだの「壁」を崩すのは、政治家の演説でも、外交官の根回しでも、メディアのアオリでも、超大国の天上的介入でもない。「ふつうの国民のふつうの生活感覚」の水準での「親しみ」と「敬意」の情勢である。国民感情のレベルにおける親和と敬意。それなくしては外交関係を基礎づけることは不可能であると私は思う。
例えば、私はアメリカという国が嫌いである。超大国でありながら、国際社会におけるあのマナーの悪さはほとんど「幼児」に等しい。しかし、私はこれまで多くのアメリカ人と個人的に知り合ったが、そのほとんど全員に対して親しみと敬意を持つことができた。その結果、私が「アメリカ」という字を見るとき、そこには強権的な「国家」の像と、具体的な顔を持つ「アメリカの友人たち」の像が同時に浮かび上がる。具体的な「アメリカの友人たち」の思い出が、私がアメリカの施策を嫌いつつ、その国を全体として憎むことを妨げている。